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のらSOHOってなんだ?

のらの成り立ち~その12:第二転職期~

2012年4月29日 19:31

さて、ようやくこの「のらの成り立ち」が終わりを迎えそうです。

で、遠くのGSIさんを辞めさせていただいて、そんなにあてがあるわけでもなかったのですが、何となく、比較的近所にでっかめのビルがあって、そこの一番上の円柱状のサインに「テレビCM、インターネット」って書いてある会社があったので、その辺はキャリアも元々あるしってことで転職したい旨のメールを合院に送ってみました。
結局面接をして受かったのですが、実は、印刷屋さんだったんですね。普通に。それでも「ワンソース・マルチユース」なんてキーワードが流行っていたので、それなりにインターネットの仕事を取る努力をしていたようで、営業同行やら、企画提案の作成やらさせて頂きました。

驚くこと多数。あと、やはりそれなりに最先端を全力疾走してきたことを思い知らされたのも、この会社での衝撃でした。例えば、当時の僕らにとって常識だった「ビジネスモデル」なんて単語は全く理解されないわけです。営業に同行する、提案する、再度同行する、理解されない、意味不明の仕事になって降ってくる、という素敵なサイクルでした。
とはいえ、今までと比べれば、死ぬほど「ぬるーい」お仕事だったので、子どもと家内と一緒に過ごす時間は出来るし、そういうビジネス上の憂さは、ニッカの懸賞論文書いて入賞して旨いウィスキーをせしめたり、東京時代のつてで地域活性化の研究会に入ったりして晴らしていたわけです。

そんな生活の中で、一つの運命の出会いがありました。当時、前職のWebGISのお仕事で知り合った東海エリアの方々と、ビジネスマッチングの集いの@ビズ東海というのをしていまして、毎週末、名古屋に出て飲んだくれて楽しんでいたわけであります。そこに、たまたま、若き起業家(といっても私より年上ですが)時代の某氏が訪れておりまして、この方が「データベースに強い人おらん?」とその会合で言ったのです。
一応、データベースソフトはそこそこ心得があったので、ご紹介いただいたのですが、その後そのプロジェクトの会合に、休日や有給休暇で何度か伺っていたのですが、お酒をご一緒させていただいたあるとき、まさに、運命の一言を叩きつけて下さいました。
「ふなはしくん、会社通すのめんどいなぁ。独立せぇへん。独立は大変だけどいいよ。第一号のお客がうちでいいやん。成功させたら実績ってことにしてどんどん活躍してよ」
と。

実は、自分の中の色々なことがあって、結婚後というか第一子が生まれてから思うところがあって、近くで働ける場所を選んだというのもある一方で、その思うところがちゃんと実現できているかどうか納得できていなかったり、仕事も先に述べたように、自分の経験やスキルが生きるような状態に感じられていなかったんですよね。
さすがに、魅力的な選択肢が目の前に出てきたわけですが、今なら即答もんですけど、当時のシャイな僕には即答できず帰って、嫁と相談して独立することにしました。まさに、この瞬間が、のらSOHOになった瞬間ともいえます。

その後、印刷屋の社長には謎の説得を受けたり、開業届けを出したりしてSOHOに。そして某ビックプロジェクトに参加。子育てと仕事の両立!と思って突っ込んだら、職場は岡山を中心に社長と一緒に全国行脚。いきなり、のらSOHOとなってしまったのでした。
ということで、私が「のらSOHO」になるまでを全12回でお届けました。これからも気長にお付き合いくださいませ。

のらの成り立ち~その11:第一転職期~

2012年1月18日 11:27

アイリンクブログに移転して、落ち着いてきたので、このシリーズを再開。とりあえず、のらになるまでって感じなので、もう一、二回書けば終わるかなってところなので、お付き合いください。
古いのは「のらSOHOってなんだ」のコーナーから読めます。

で、まぁ、めでたく結婚することは決まるわけですが、愛知県住まいなので転職が余儀なくされるわけです。とはいえ、ネットとメディアという仕事は非常に興味深いので、ぜひ続けたく思っていて、当時、愛知県内のWebを持っていたネット関連のビジネスをやっている全企業にメールしました。
別のエントリーで書きましたが、iBOXコンテンツ作りで、サイトを100や200を一日で内容ごとチェックするなんてお手の物でしたので、その辺、1日も作業すればあっさり見つかるわけであります。今思えばSPAMすれすれですが、当時はそんな概念もろくになかったし、数社引っかかって、そのうちの一社がネットビジネスへの進出を考えている会社で、そこに採用いただきました。技研商事インターナショナル様です。はい。
ただ、愛知県でも西三河というところから名古屋への距離を全く知らず、47都道府県の場所もろくに答えられず、愛知県だか名古屋県だか違いもわからんような人間でしたので、採用いただきありがとうございました、という感じでした。

で、結構、転職前に社長や取締役と飲みながらビジネスプランを練って結構夢膨らむ日々でした。ビジネスはコンシュマー向けのWebGIS+マーケティングシステム。競合としてはマピオンだとかマップファン(今やどちらもGOOGLE様に駆逐されてしまいましたが)。
で、入社が決まってから驚きの事実。なんと、そのビジネスのチームは基本的に渋谷です、ということをいわれてしまいました。開発チームは東京と札幌にしかいなくて、名古屋には本社機能しかないという驚愕の事実。システムが出来上がるまでは東京にいろと。
新婚さんにはつらい話です。いい仕事をさせてくれたことは感謝だけど、新婚一ヶ月返してけろ~。

仕事は自分でみっけないといけないと思い、GISのコア部分は専門会社なので、マーケティング用のデータをためるDB(Oracle)とパノラマ画像の技術のWeb化を、必要だけど社内で誰も手をつけてなかったので、それを勝手に仕事にしました。このころノウハウが、唯一の単著になっています。
家内が妊娠+併発の病で入院してしまったとの連絡を受けて、東京の責任者である取締役に「明日から一時帰宅をお願いします」っていったら、すごく親切にすぐに「とりあえずすぐ帰んなよ。落ち着いたら、とりあえずまずは名古屋の本社に出勤して」といってくれたので、お言葉に甘えて、その場で社宅もそのままにして帰宅。家に帰らずそのまま病院に直行しました。
で、まぁ、すぐに退院するわけでも悪化するわけでもないので、帰宅。で、週明けに名古屋の本社に出勤してみたら、すでに、名古屋本社にデスクがあって、そこに東京で使っていた開発環境があって、隣に今度の上司までいるという状況。
「おおむね、開発が終わったから、今日からここで運用と運営よろしく」といわれ、そのサービスの事務局長って座に落ち着くわけです。

ここからしばらくは、出勤、病院(家内の見舞い)、帰宅というサイクルの生活が始まりました。たぶん、子供が生まれて家内が退院するまでこんな感じだったと思います。
で、仕事はそのMAPサービスを成功させるのに無我夢中の日々で、今では結構普通の手法だけど、新サービスを付加する、プレスリリースをまく、というのを繰り返すことで認知やアクセスを向上させていきました。ひところのインターネット関連雑誌のGISの話題では必ずマピオン、マップファンと並んで登場しているというぐらいやっておりました。
おかげさまで、アクセス多数でシステムダウンの体験も多々させていただきました。そのトラブルシューティングで色々実力が身につきました。
その合間に、サメ軟骨売るサイトやら、セキュリティUSBキーの販売サイトやらやってました。
子供も無事生まれ、といいたいところですが、陣痛がはじまってから長かったので付き添っていた僕のほうがフラフラになっていて、看護師さんに「お父さんはお帰りいただいても大丈夫ですよ」とまで言われる情けない始末。分娩室に入ってからは、立会いはさせない病院なので、病院のソファーで仮眠。で、その仮眠中の夢の中で子供が出てきて、自分も家内も、その子を呼ぶときにその子の名前を言っていたので、無事生まれたときに家内にそのことを話して、それを娘の名前にしました。

仕事も順調。子供もすくすく育ってくれて公私共に幸せでしたが、勤め先がなんとなく雲行きが怪しくなってきます。僕のセクション―といっても事実上僕一人ですけど―は問題ないんですけど、周囲の他セクションの雰囲気が悪くなり、あわせてそれとなく新規事業を取締役のうちの一人(先の取締役とは別)が直轄にしたそうで、という状況でなんとなく居場所がなくなってきました。
あと、名古屋のはずれと西三河のはずれで非常に遠くて、電車の乗り継ぎとか入れると2時間はかかる始末。すると、仕事の帰りは誰よりも早いわけです。尾張人の社長には「なんだ、貴様は三河もんか!」と不合理に怒られ「ご先祖様は尾張です(ほんと)」と言い返してご機嫌を直してもらいましたが、さすがに終電の兼ね合いとはいえ20時に帰るのは、いたたまれないところもあって、一念発起。転職をもう一回することにしました。

で、まぁ、近所の印刷屋に転がり込んだのですが、これで一生田舎で暮らせると思ったのが運のつきでした。
思ったより内容が長くなったので、次に続きます。

のらの成り立ち~その10:第二新卒期~

2009年6月 4日 13:26

んで、その求人票の会社ってのを面白半分でネットで調べると、コンシュマー向けのインターネット専用STBというものを世界ではじめて開発したっていう内容で、その製品を売る仕事は面白そうだと。多分、メディアのあり方も大きく変わるんじゃないかと妄想が膨らみ、自分の教授に無理矢理推薦状を書かせて、その会社の面接に突入しました。
で、行ってみたら、その会社の主力の商品のための技術希望の人ばかり面接に来ていて、マーケ希望の人間は僕一人。で、試験は共通で面接は僕が一番バッターに。で、まぁ、いきなり社長面接でして、ネットとメディアの未来を語りに語ったら、社長と意気投合。半日ぐらい話し込んでいました。で、社長が「あ、僕これから台湾に行かなきゃいけないから後宜しく!」と、後ろの人の面接を放置して言っちゃう始末。思えば、僕の後ろで待っていた人は半日待っていたんだなと思うと可哀想ですな。
で、当然のごとく合格。行徳という駅の側の社宅に住んで通勤する生活。で、まぁ、当然のごとく配属は希望部署のマーケッティング部。ここから、怒涛のように働くわけです。なんたってネットメディアの未来を創らなければいけないわけです。コンテンツがとにかくないので、とにかく、平日は会社でネット用のサービスをひたすら作りまくる毎日。ネットを知っている人も少ないわけなので、休日は展示会やエクスポにブースを出すか、どこかで動画配信を運営しまくる日々。で、夜はエロ番組まで作らされるというすさまじさ(笑)。しかも職場は会社の隣のビルのワンフロアで、下にバイトが数名。出城を一人でまかされてやりたい放題でした。いまでも、当時のバイトさんとは付き合いやら取引があったりといい仕事仲間です。
でも、朝7:30に家を出てて、夜2:00にタクシーで帰るというむちゃくちゃな日々。当然休日なし。初ボーナスは現金で1万円支給。で、次の年のボーナスは一番多く貰ったといわれる僕の分で一ヶ月。僕としては金のために働くというより、夢のために働いているところがあって、今思うととっても充実していた職場でした。
ただ、体もう悲鳴を上げ始めて、余りのぼろぼろ度合いに25歳にして人間ドッグに会社持ちでいくという体験までしましたし、普通にテクノストレスなどと診断される始末。でも、適当に抜くところは抜いていて、時々、いろんなオフ会にでたり、平日日中にデートしたりとかのんびり暮らしている部分もあったりします。
そんな時に、今の飼い主様と出会ってしまいました。でも、飼い主様は西三河在住。私は東京。なので、遠距離恋愛でギリギリの生活に一変。毎週金曜日勤務が終わると走って新幹線こだまに乗って西三河通い。毎週末は交通費だけで2万円出費。おまけに電話代はうなぎのぼり(当時はネットの接続も電話でしたのでメールのやり取りでも高くついたのです)。当時の日記が実はネット上に撲滅しないで残っているのですが、今読むと超赤面です。
交通費+通信費+酒代でほぼ全収入(売り上げ)を使い切るという、会計構造としては今ののらと同じような状態が、このとき完成しました(^^;
でまぁ、この悲惨さに見かねたのか、結婚していただくことになったのですけど、条件は西三河に住むこと。その会社の名古屋支店は閉めたばかり。よって転職を余儀なくされるのであります。勤めている会社の人々には感謝されるは驚かれるはで、つつがなく寿退社をさせていただくことになりました。
こうして、のら人生へのカウントダウンスイッチをしらぬまに押してしまったわけであります。

のらの成り立ち~その9:大学院期~

2009年2月 4日 18:58

とりあえず、年始ぐらいに実家に転がり込んだのですが、入院生活が長かったり薬が抜けなかったりして、だるい感じもあったので大学院入試を受ける先を決めるために大学に遊びに行ったりしながら社会復帰を検討していました。

で、なんかバイトでもしようと、チラシに入っていたギフト用の箱に缶詰をつめるラインのバイトが、実家そばにあることを知ったので、社会復帰にはこういう単純な作業がいいじゃろう、ということで面接に行ったのでありました。そしたら、「そんな北海道大学なんて高学歴の方にこんなバイトはさせられません」といわれてしまう。いや、僕的にはリハビリついでなのでそれでいいのだけれど、と思っていたら別の業務を提示され、時給も高いバイトになってしまう。
それがサッポロファクトリーの裏の物流のバイト。テナントの荷物を集配荷しながら、自販機とゴミ箱とロッカーを管理するというもの。リハビリってよりは普通に仕事に。結構ハード。少しづつ元気になってくると、ボチボチ、ススキノなんぞの開拓にも精を出し始めるわけでして。この頃に今の行きつけ見つけたんだよな。
これに並行して、バイトの休みの日には大学に。院を決めるために情報収集。古巣に帰るつもりだったんだけど、たまたま、科学史科学基礎論講座の院生募集のポスターを見てしまう。基礎論の先生は大学の教養時代に習ったことがあって興味があったので、話を聞きにいくと、余り好印象ではないものの受験に必要な情報をもらう。ついでに、先輩がいないという情報も貰う。
この先輩がいない出来立ての研究室ということに魅かれ、ここを受験することに。で、まぁ、無事受かってしまいました。

で、大学院進学と同時にバイト先は終了。でも、たまたま最大のテナントであるサティの商品管理の方に気に入られ、そこのバイトに。事細かに事務仕事を教わりました。まるっきり違う世界の仕事ではあるけれど色々学べました。拾ってくれた社員さんと僕だけの職場。怒られたけど仕事のいろはをよく学んだよなと思う。一番力を入れたのは、間接資材の管理と、バイヤーの適当発注の撲滅。今思えば、データを元にしたBPR。社員さんは私物のPCを持ち込んでいろいろとやってたよな。
大学院はゼミのある週二日以外は、全部バイト終了後に行っていた。なんたって、専攻の実態は科学哲学。夜中にやろうが昼にやろうが大差ないわけでして。1年目は科学哲学一般。2年目は量子力学の様相解釈。ひたすら勉強しておりました。
で、夜はじめて疲れますと、終電時に一番そばの駅から地下鉄に乗ってススキノに。ススキノで一杯。で、とことこ歩いて実家に目指す途中で、ラーメンを引っ掛ける。更に、家のそばのコンビニで980円で売っていた750mlのタンカレーを買って実家の自分の部屋で更に飲んで寝るという日常でした。で、次の朝出勤して、というサイクルです。
あとは、インターネットインフラを引いてホームページを作るということをしていました。社会人の友人が非常にそれに精通していたのでひたすら指導を仰いで、Webサーバー兼クライアント機を立ち上げて色々やっていました。

そんな調子で淡々と2年間を送ったわけですが、博士課程にしようか就職しようかというところで、科学史と科学基礎論の学生控え室が共用で、僕の机の上に、科学史の先生が間違って求人票を置いていたのです。この求人票が、僕の運命を急展開させようとは夢にも思いませんでした。

ということで、次回に続きます。

のらの成り立ち~その8:第一新卒期~

2008年11月 9日 18:59

見事に就職しましたが、まずは研修ということでひと月ばかり東京に研修に出ることになりました。
人生初の内地住まいということで、東京という都会に出ました。でも、なんら浮ついたこともなく、ひたすら三軒茶屋の宿泊所と砧の研修所を往復しておりました。
で、研修初日にいきなり英語のテスト。当然ダメダメ。で、研修中もおのぼりさんなので、なんら役立たず。最後のチーム分けをするわけなのですが、そのときに研修講師に「君ら一番できないの集めたから」と言われる始末でして。そのときの仲間とは時たま連絡をとって少し酒を飲むぐらいはしています。でも、ドロップアウトしたのは僕一人でして(^-^;。他の人はみんなちゃんといい番組作りをしています。はい。
今でもその研修で覚えているのは「巨悪を撃つな、中悪を討て」「所詮、許認可事業」という放送の情け容赦のない現実の解説だったりします。あと、放送法には異様に詳しくなりました。まぁ、そういう職場ってことですね。

で、配属先旭川に戻ってきます。まぁ、ふるさとなのでやりやすい反面、顔見知りばかりでやりにくいところもあったりと、中々微妙な感じでした。
初仕事が、旭山動物園で走り回ること。なんというかですね、バイト以下の扱いで中々やな感じでした。その次が、焼尻島のロケのお手伝い。この辺から多少人間扱いしてもらえました。結構楽しかったのを覚えています。その次が、今日の料理の取材。いい結果が出なくて、先輩に続きをフォローしてもらいました。で、その次が美深町を題材にしたプチ紀行もの。一応、卒業した中学校のある所なので、色々頑張って、周りにもいいスタッフをつけてもらって、いい番組に仕上がりました。その次は、新人競作ってことで、北海道の人紹介シリーズで自分の恩師を紹介して何とかこなしました。

実はこの辺から仕事の雲行きが怪しくなりました。というのも、何をどうしていいかわかんないんですね。番組の作り方は、ロケについていったり、野球中継したりと身についてはいくのですが、結局、自分で何か取材して作れといわれても、自分で作りたいネタがでてこない。
一応、児童福祉にテーマを絞って取材をしてはいたのですが、番組にしようというよりもこの事態をどうにかするのは違う方法じゃないかとか思えたり。それ以外にも、にっちもさっちも行かない感じで追い詰められてきました。他人に伝えたい何かがない、って言うことにとことん追い詰められてしまったんですね。今思えば、そんなの気にしなくても良かったんでしょうけど。

結局、うつ病ということになって、始めは通院。その後入院。でも、よくならないので、再入院。結局職場をやめることにすることで、あっさり治りました。まあ、うつの原因が職場だけだったってことなんでしょうね。今もうと結構楽しい入院生活でもあったので、この辺も治った要因なんでしょうね。
とはいえ、やめてそれっきりで遊びほうけるわけにもいかず、おまけに給与がいいのに使う暇がなかったおかげで貯金もたまったので、いっそ今一度大学院に行って子どものころからの「科学者になりたい」という夢でも果たそうかしらと、札幌の実家(当時は親は札幌住まいだった)に転がり込んで、大学院受験をすることにしました。

ちょうど一年、社会体験をした格好になりました。

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