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のらSOHOってなんだ?

のらの成り立ち~その7:学生期後編~

2008年8月 9日 16:15

さてはて、意外と間が空くことなくこのコーナーを書き足せるわけですが、仕事の逃避で書いている感じもしなくもありません。

ま、そんな感じで、赤い組織とも手が切れて、子供の頃の夢の科学者を目指すべく、理学部化学科の3年生となったわけです。学ぶ楽しさもさることながら、学ぶための世の仕掛けの多様さにも目が開かれてしまいました。で、科学者もさることながら、研究と教育を両立し、おまけにイベント企画までやれちゃう素敵な仕事ということで、学芸員という職種があることを知りました。

で、今までの性向性から考えるに、それを取りたくなってしまって、教員を目指すわけでもないのに、必要な関連単位を怒濤のようにとろうとしてしまい、現状ではありえない(大学の単位管理システムが有能なので)ことですが、同じ日の同じ時間に2つの授業を受けるという状況がちらほら。さらに、同じ日の同じ時間に3つの授業を受けるという日が、今も忘れない、金曜の一時間目に発生したわけです。
で、恐ろしいことに全てきちんと単位を取得しましたが、最後の必要な単位である博物館実習に出れないということで、資格取得は結局相成りませんでした。

今思うと、この一年間は、非常に地味でした。だって、勉強と研究だけなんだもん。あ、あと引っ越しました。すごい人材を多数輩出しているいかがわしい下宿から、カテリーナ札幌という、名前がいかがわしいワンルーム。カクテルを作り始めた頃ですので、家がバーのようになっていました。

4年に上がるときに、今度は研究室の配属を決めることになりました。多分、これが自分の人生の大きなターニングポイントになったんだろうなと思います。なぜか、僕の行きたいと公言していた研究室が人気だったんですね。みんないい人だったので、僕だけまずその研究室にして、その他でジャンケンでもくじ引きでもって言ってくれたのですが、研究室としては行きたいんだけど、別にそのときにはバリバリ研究だけの人生っていう気持ちでもなかったんよね。で、結論は人気のない研究室に動いて調整要員になることを決めたってわけ。で、お蔭様でもめることなく完全に研究室配属は終了。

研究生活に入るわけですが、実は案外やってみたら面白かったんですよね。テーマは光るプランクトンの体内時計を調整する物質の体内での挙動の大雑把な流れを確定するって奴。まぁ、関心のある人は、こいつを買って読んでください。なるほどこれが研究なんだっていう片鱗ぐらいは見れたので、すごくラッキーだったと思います。

就職活動は、就職氷河期でしたので、大変だったと思われがちですが、志望が広告代理店・マスコミでしたので、平時でも充分大変なジャンルで余りしんどさはありませんでした。それでも、電通・博報堂を受験に東京まで何度も行きました。地元の広告代理店を受験したくて、直接電話をかけまくると「もう閉店するから」という、とっても切ない断られ方を沢山しました。そうこうしてたら、NHKに就職が決まってしまい、なぜかマスコミになることになってしまいました。

後は、しっかりと研究をまとめて、きちんと発表して、きちんと卒業しました。
で、NHKの研修を受けに東京へと旅立つのでありました。

のらの成り立ち~その6:学生期前編~

2008年7月15日 14:10

さて、ネタが切れると書くようにしているコーナーですが、のらをあまりにしないので、ネタが切れっぱなしで書くほうが追いつきません。それはさておき。

で、無事大学生になるわけですが、住まいを決めるのに大学生協様のお世話になりました。その時窓口で対応してくれたあんちゃんが、「あー、徒歩で20分ぐらいね。大体、うんキロだから」とコンパスでその直線距離上にある下宿を紹介してくれました。なんという適当っぷり。でも、このアンちゃんも後には一緒に活動する羽目になるとは思いませんでした。
で、入った下宿がハイツ松浦というところ。全く持って、へんな多士済々の下宿でした。ある意味この下宿での生活そのものも漫画になりそうです。ちなみに、大物が出てきても不思議じゃないような環境でした。すでに頭角を現しているやつもいます。ともかく面白い日常生活でした。おかげさまで、この2年間、まともに睡眠が取れた記憶はありません。
で、バイト先は親戚が経営する大型家電量販店のFC店。これは4年間お世話になりました。とはいえ今思うと、労基法違反でした(笑)。でも、OA機器のセットアップとかコンサルをやらされたり、DBシステムをいじらされたり、広告を作らされたり、やくざのお宅に配送させられたりと、色々勉強になりました。あ、普通のお店の売り子とかもしましたですよ。はい。
で、本業の学業ですが、今までが超おバカさん学校だったおかげで、学ぶこと全てが新鮮でたのしかったのです。とにかく、教養課程2年間は鬼のように単位を取りました。無茶無茶おもろかったので死ぬほど勉強しました。気がつけば、量子力学関係は人一倍できるようになっていたような気がします。レポートが流出して、皆さんの単位獲得に貢献していたように思います。おかげで、クラスの飲み会はただでした。とにもかくにも、演習と実験は取ること可能なものはほぼ全て取っていました。雑学王みたいな妙な知識が多いのはこの頃のせいです。
こんな生活に暗雲を立ちこさせたのが、生協様でございました。高校の生徒会で合議制とか事業を取り回すことはこりごりだったので、上手く逃げおおせていたつもりだったのですが、当時の北海道大学の制度のせいで、3年時以降に学ぶ学部学科が未定なのです。学部学科の選択の参考にと言うことで、学部探検なるもようしものがあって、それの打合せに行ったら、それは生協様主催で、赤い組織特有の堂々巡り反省スタイルで、事業が進まなかったわけです。ぶちぎれて適当に仕切ったら、それが運のつき。あれよあれよと、新入生歓迎の事業の一部をやらされ、理事になってしまい、気がつけば湾岸戦争のときに渋谷のど真ん中の街宣カーの上で、アメリカを非難する演説をぶつまでになってしまっておりました。全くもって、思想信条にそぐわないことをやっておりました。
ちなみに、理事会では資本主義と受益者負担を訴え続け思いっきり野党でした(笑)
まぁ、人間やれば出来るってことと、こういう合議とか事業をまわすって事が、案外と自分の能力で向いているという変なことを理解してしまったのであります。

まぁ、そんなこんなで、教養課程を終えて、専門課程に突入していくのであります。今度こそ、研究者になることを目指し生きていくのだと、心に近い、第一志望の理学部化学科というのに進学しました

のらの成り立ち~その5:生徒期後編~

2008年6月30日 15:00

まるっと、半年ほど放置していたカテゴリーの投稿です。なんとなく、読書していたら思い出したので。

志望高校が不合格になった日は、すでに引越しをして、上富良野という町に到着してすぐで、駅前の焼肉を家族で食っていたような気がします。で、焼肉屋で電話して内々に不合格ということを確認したのを覚えています。
昔は、個人情報保護もひったくれもなく、なんとなく合格情報というのは洩れ伝わるようにできておりました。特段、悲しいという感覚もありませんでした。テストは実際にできませんでしたし。

親には、高校落ちたらどっかに丁稚だぞといわれていたので、どっかに丁稚に行くんだろうなぁと思っていたら、公立高校の2次募集なるものがあるということで、上富良野の隣町の美瑛町の高校を受験しました。パチンコ屋の二階で、帰りに親と飯(クリーム系のパスタ)を食ったことを良く覚えています。ちなみに、2学期から新校舎に代わりました。
中学時代にプログラムを組むことを覚えたので、こいつで飯を食おうと思って、親に頼み込んで情報2種の試験に出るという言語のFORTRANが動く最安値のPCセットということでMSX2とMSX-FORTRANを買ってもらい、通信教育で情報2種と1種の勉強をさせていただきました。結局受験しなかったのですが。
電車で通学していたわけですが、まぁ、あんまりお世辞にも素行の良い学校ではないわけです。いわゆる底辺校です。なんたって、学年によっては、卒業時にクラスが一個減るぐらいで。とはいえ、いろいろな人がいて結構楽しめましたし、価値観も広がったなぁと思います。
一学期の通学時の電車の車中で、見知らぬ違う学校の女子に制服のボタンのマークを見られて「こいつ、美瑛ジャン。ばかじゃん」と聞こえよがしにいわれ、「何でそんなこといわれにゃならんねん」、という気持ちが出たあたりから、人生狂いはじめました。
ものすごく頭にきたんですね。で、馬鹿呼ばわりされる理由はなんだろうと思い色々友人に聞いたところ。たぶん、いわゆる、偏差値が低いことがよろしくないんだろうなと。偏差値が低いとなにがダメだというと、いい大学に進学できないということらしいと。「だったら、いい大学うかりゃもんくねぇんだろう!」と、一念発起し、受験勉強をはじめてしまい、せっかくのPCと通信教育(ちゃんと終わりましたけど)が無駄に。お父様お母様ごめんなさいと今だからいえます。一応、志望校は北海道で一番いい北大。だって、それしか大学知らんかったんだもん。あるいみ、やっぱり馬鹿だったのか(苦笑)
ちなみに、親類の大半は「かなーり、ありえねー」ってことで、バカにしてくださいました。今でも根に持ってます。

で、この辺で感情が燃え盛ったあたりで、なんと、高校なのに転校する羽目になってしまいました。
まぁ、いろいろありましたが、上川の超底辺校から網走の普通の高校へいわゆるランクアップ型の転校という、かなり珍しい転校をやってしまいました。これに関しては、当時の両校教員各位の努力に感謝しております。
この転校がまた更に自分の人生を訳解らなくしていきます。まぁ、がっちり進学希望なわけなんですけど、さすがに国立大学理学部という進学希望者はここでも稀有だったおかげで、勉強に関しては比較的なんでもありに待遇してもらいました。
それ以外は何だか意味不明の生活を送ってました。ひとつは、担任の先生の口車に乗せられてやらされた生徒会。よくわからないけど、一部の連中とつるんでやっていたテーブルトーク。さらいに理解不能だけれど、彼女ができてヒマさえあればいちゃいちゃしていたこと。この三つに平行して受験勉強をしていたわけです。生徒会なんかはまさにマンガみたいな状況だったので、別の機会にマンガにでもしようかと思うぐらいです。特に校舎移転で、学内のルールが変わるので、すったもんだでした。おまけに会長は稀代の難病(といっても、ほっぺたにこぶができるだけで元気。しかもすぐ直った)で、抜けるし。
彼女に関しては何を血迷ってあの当時のあんな偏屈な僕と付き合っていたのか今となっては不思議なぐらいです。
あと、祖母がなくなったことと、受験間近に市内で引越しさせられて勉強を中断させられたことは今でも覚えています。

何だがドタバタしているうちに、大学受験。センター試験は受験するねーって言った友達は、誰も受験せず、すでに一人で受験。北大に受験にいって、会場で具合悪くなって離席してゲーして戻ってきて、もう終わりかぁと諦めたら、試験監督のおっさん(あとで教授と知る)が中に入れてくれて再開。納得いくまで試験ができて、良かったなと。
で、次に本命の北見工業大学の試験。倍率4倍で受験に言ったら、4人中1人は欠席。出席者の3人に2人は問題が始まるや否や諦めて寝ている。って、ことは、おきてまじめに問題を解けば受かるってことね。と、まじめにやる。

で、北大の合格発表をテレビで。気持ち色々な怨念でやってきた部分だけど、受かるとも思っていないので、テレビで友人の合格を見ようと、家族で発表を見ていたら、自分が受かっていて大騒ぎに。見ず知らずの人やら、友人知人からガンガン電話がかかってくる。
今思えばたいしたことじゃないのに、偉くたくさんの人が騒いでくれたよなぁと。
とうぜん、親類の手にヒラの返りっぷりは、冷ややかに見させていただいたことを覚えております。まぁ、このあとまた手のひら返るのですけど。

そんなこんなで、大学生というものになってしまいました。

のらの成り立ち~その4:生徒期前編~

2007年11月 7日 11:46

そのまま旭川で中学生になったわけです。義務教育なので当然なのですが。

その頃、勉強はぜんぜん出来ませんでした。小学校のときかろうじて出来た理科も、物理ジャンルなど数学的な基礎を多少なりとも必要とするものは壊滅的になりました。だって、一次方程式も満足に解けない有様でしたし。英語にいたっては意味不明です。でも、1年生の頃は結構生き生きとしていましたね。
まず、通学路に千代田電機というお店があって、そこに当時の流行のパソコンってのが幾つも展示してあって自由に触れました。で、当時、著作権意識が低い社会だったので、パソコンソフトのレンタルってのも結構はやってました。猛烈に、友達と少ないこずかいを出し合って、レンタルしてダビングして、その千代田電機に持ち込んで、延々と遊んでました。
あとは、順当にSEGAで遊び倒してゲームマニアの路線まっしぐらで、加えて、深川の頃に覚えたゲームセンターのゲームで遊ぶ癖も抜けず、よく補導員の目を盗んで、地域のゲームセンターにもよく出没しました。ゲームによっては1コインあれば延々と遊べるようになったのもこの頃でしょうか。

あと、この頃特筆すべきは学校祭で、学級新聞を作って優勝した体験でしょうか。なぜか、うちのクラスの女の先生(日暮先生っていったかな?)がそういうことに指導力を発揮して、新聞を作るノウハウががっちり身につきました。小6から続く、学級新聞コンテスト連勝記録がスタートしたのはこの頃からです。

そうこうしているうちに2年生になりました。あまりの阿保さ加減に、学校の先生が家庭訪問のときに「塾に行かせよ」と親に言ったので、塾に行く羽目になりました。初めに言った塾は、よぼよぼのおじいちゃんの塾で、通って3ヶ月で先生がお亡くなりになって有耶無耶になりました(^^;
その次に、親の知り合いというか親類のやる塾に行きました。この頃からでしょうか。数学と英語がめきめきと出来るようになりました。アヒルばかりの通知表が、耳やヨットぐらいにはなってきました。

あと、この頃、結構ないじめという奴に会いました。ただ今時の無視系ってよりは、フルコンタクトな攻撃系で、胸部挫傷で病院に行く羽目になって、事が露見して、そのいじめのほうも有耶無耶になりました。
そのときに、人は逆境にいるときこそ相手の価値が分かるってことも知りましたです。まぁ、調子のいいときでも悪いときでも同じように付き合ってくれる友達ってのは大切な友達です。

この頃、マイコンベーシックマガジンとかプログラムポシェットとか言うプログラムが出ている雑誌を読んで、「ゲームって自分で作れるんじゃん」と思って、SEGA用のBASICカートリッジとキーボードを買いました。でも、マイナーすぎて売っている本のゲームはほとんどそのままでは動かないという実に悲しいことも分かりました。
でも、同時に、ノイマン式コンピューターはグラフィック等の機能部分は別にして、論理構造は一緒だから「移植」すれば動くということも覚えました。俄然、PCのプログラミングが楽しくなってきました。

で、ちょうどこの頃でしょうか。美深町に引っ越すことになりました。2年生も終わりのころです。またもや、修学旅行直前の転校で、修学旅行はあんまり楽しめませんでした。

この頃二人の友人を得ました。
一人は、うちの1.5男というぐらいうちに入り浸ったやつで、僕より先に三河地方で生活を始めて、今の家内との結婚に関して一生懸命支援してくれた奴です。
もう一人は、プログラムを作ることを一緒に切磋琢磨した友達で、才能があり、本業のゲームプログラマーになってしまいました。彼は雑誌のテトリスのコーナを見ただけで、実際にテトリスを作っちゃうすごい脳みその持ち主でした。
この2人とはいつも一緒につるんで、ゲームで遊ぶか、ゲームを作るか、作ったゲームを検証するかを延々と繰り返していたような気もします。
この頃、ゲーム作りをするために、SEGAのBASICから脱却して、MSXに鞍替えをしました。セーブしたりする周辺機器が良かったし、実施できる様々なソースコードの情報や事例が多かったので、勉強になりました。ビデオゲームを通じて何か表現が出来るなぁと感じれたのもこの頃からです。

ただ、この頃、いじめの影響か性格的には最悪の人間でした。学友に正論を吐き論破し、「お前みたいなロボットに何が分かる!」とべそをかきながら切れられたこともありますし。
とにかく嫌われてもやることやればいいだろうが系の人間でした。今でもその辺の性格の名残は少なくなったりします。学級新聞も金賞を取りましたが、指示をしましたけど作業は一切しなかったので「おまえなんもしてないじゃん」とかいわれてみたり、卒業アルバムの編集委員長なんかもやりましたけど、代替2年の末に転校してきて全うなものが出来る分けないじゃんかとか反発してみたりと。でもやっちゃいましたけど。
でも、ここでもやっぱり支えてくれる友人はさえてくれたんで、嬉しかったですね。

あ、弁論大会ってのにも出ました。学内予選は通って地域予選に上がったんですけど、学校の先生他とマイクロバスで移動している道中、昼食にカツを食べたらいつまでも出てこなくて遅刻。ついてみたら、僕が一番初めの発表者になっていたらしく、みんな待っているという変な自体に見舞われました。さすがに、ペースを乱して自滅。銅賞に終わったような気がします。それ以来、カツを食べると負けるという変なジンクスが出来ました。

あと、家庭はしっかりしていて良かったんですが、地域は最悪でした。すっかり労働組合は嫌いになりました。うちの親を誹謗する根拠の無い怪文章が配布されてみたり、猛吹雪の日にアパートの除雪をしたら、あのうちの担当の日だから一切手伝うなとか変な通達を出して嫌がらせしてみたり、あきれることだらけでした。
でも、うち親が偉いなぁと思ったのは、裏で菓子折り持って来た人に対して筋が通らないからとかしをりを受け取らないで帰して、その上で、自分の部下はみんな適切な再就職なりJRに残すなりをやってのけたわけです。あんな、下らぬ嫌がらせをしたようなばか者に対しても、粛々と情を持って処理したわけです。
嫌われても正しいことをする。これは自分のポリシーとして身についたことでもあります。

この頃、近所の本屋で残った小遣いで、たまたま買った「ノックの音が」という星新一の本があり、ここから星新一フリークというか、フィクションを読むことを覚えだしました。

で、親の転勤もあるので、高校の受験は、旭川西高校の理数科というのを志望して受験しました。やっぱり、科学者志望だったってのもありますし、西高の科学部ってのは結構伝統もある所なので、希望したってこともあります。ついでに、中学校3年生のとき転校したら、成績が2ランクも急上昇。で、実際に受験直前の倍率は1.0。90人定員、88人受験。こりゃ大丈夫と思ったら、やられました。
当日数学で一つの問題に固執したら時間を忘れて、他の問題が解けなくて、自滅。それ以来、仕事を人の3倍の速さでこなしたり、時間にうるさくなりました。

で、涙一つ流すことなく、答辞かなんかを読まされた気もしますが、卒業式を粛々と終えて帰宅。荷造りをして、上富良野町に引っ越していったのでありました。

のらの成り立ち~その3:児童期後編~

2007年11月 4日 17:00

小学校4年生の後半で、またまた転校します。今度は深川と言うところです。

このわずかな間の4年生後半の時の先生の印象は0です。誰だったんでしょうねぇ.....。

で、すぐに5年生になります。
ここでも、結構インパクトのある先生に出会いました。下の名前は覚えていませんが、山口と言う先生でした。「うちの組の名前は山口組だ!」と、担任が分けのわからないインパクトでクラスを支配しておりました。おまけに、クラスの唄には、強制的に松山千春の「大空と大地の中で」が指定され、毎朝と下校時に強制的に斉唱させられました(笑)

個人的には、この状況は嫌ではありませんでした。で、この先生も土日に有志を連れてよく外に子供らを連れ出してくれました。なんでも後に自分の親に聞くと、連れて行くときに、各親御さんには「死んでも知らんぞ」といって、了承した親の子だけを連れて行っていたようです。今思えば結構、危険な中でいろんなことをやらされたと思います。

ここで、僕の仕事や勉強のスタイルを決める事件が一つ起きます。授業中に、ひたすらノートを取っている子がいて、先生の話を聞いていなかったことに、この専制先生が切れてしまって
ノートなんか取るな!俺の話を聞け!
とぶち切れました。で、それ以来うちのクラスはノートを取ることは禁止。ひたすら相手を良く見て話を聞く以外はないわけです。とはいえ、聞き返すことは自由だったし、比較的自由に質問をしたり議論はした記憶があります。
ただ、これ以来、メモを取るのが下手なんですね。とにかく聞いて覚える。必要であれば後でまとめて文章化する。と言う流れになりました。ちなみに、この状態は大学生になるまで続きました。ですが、この週間は結局、社会人になってから元通りで、今でもメモを取らない人間です。
友人の中で、落語にはまった奴がいて、その流れで、理科学書、ノンフィクションに加えて落語と言うものをよく読むようになりました。僕の会話に変な落ちや笑いがつくのは、このせいだと自分では思っています。

あと、学校前の簡易裁判所で、朝早く遊んでいて、気がついたらお昼休みだったとか、夢中になるとほかの事をしっかり忘れるほどあほな人間だということも良くわかったのもこの頃です。

この頃、いろんな意味でのゲームっ子に変貌しました。先ずはまったのはボードのSMGです。もともと、軍艦とか結構ミリタリー物を作る趣味が高じて、書籍にゲームにと展開したわけです。
で、あと、この頃よく遊んだ子のうちが、喫茶店でした。昔、喫茶店はビデオゲームの遊べる場所で、よくただで遊ばせてもらいました。で、しっかり、ビデオゲームの魅力にスッカリ取り込まれました。で、お年玉は、SMG、ビデオゲーム、プラモとものの見事に吸い込まれていきました。
ただ、先生の一言が僕の中でこの事態を正当化していました。「遊びは勉強。勉強は遊び」なので、徹底的に遊べといわれたんですね。その後の人生をある面で方向付けてしまった名言です。

そうすると、自分で作りたくなったり家で遊びたくなったりするのが人情で、一生懸命、チラシの裏に六角形を大量に書いて、厚紙を小さく切って、いろんなSMGを作るわけです。今思えばよーやったもんです。で、プラモのほうも、出来合いじゃ満足できなくて、プラバンを買ってきて色々作ったわけです。
ですが、ビデオゲームってのは雲上世界のもので、どう作っていいものやらと思っていました。

そうこうしているうちに、ファミコンブームってのがうちの田舎にもやってきました。で、ファミコンを買いたかったのですが、旭川のデパートまでいって結局売ってなくて、泣きながらSEGAというマークの入ったゲーム機を購入しました。で、これはこれで結構遊べるので、夢中になって遊びました。ただ、このせいで、世間のマジョリティに背を向けて、マイノリティな人生を楽しむ癖がつきました。

なんだか書いてみてこの一年間で、ひねくれものの原点が出来上がったのが良くわかります。スッカリ人と違う発想法と習慣が身に付いた一年間でした。

で、この後、都会の旭川市に引っ越します。生まれたのは旭川市なので、ある意味故郷帰りなのですが、田舎モノの感性だったので、ものの見事に馴染めない小学校最終年度が始まりました。

なんたって、修学旅行の年です。友達もろくに作れていません。この環境下で修学旅行たってねぇ。今一覚えていません。同じ班や同じ部屋になった子はある意味災難だったかもしれません。でも、夜中に、寝ない子供になにやら怪しい液体を回って飲ましていた担任はいたなぁ。今思うとあの味はウィスキーなのではないかと。
学校生活的には、転校生の癖に図書委員長なるものをやったことを覚えています。恐ろしいことに、そこの学校って図書室がなくて、旧校舎を活用して「図書館」だったんですよね。今思えば、結構本格的な司書業務でした。で、啓蒙用の劇の台本を書いたりしたのがこの頃でしょうか。物書きデビューだったのかも知れません。

家出の生活は、当麻~深川時代を踏襲して、読書、SMG、プラモ、ビデオゲーム三昧でした。プラモは、なにやら賞を取ったことを記憶しています。
で、後覚えているのは、生まれて初めて、映画館で映画を見たことでしょうか。兄と一緒にETを見に行ったことを覚えています。
学校では上手くかみ合っていませんでしたが、なんせ前の年に十分ひねくれものの素質が開花しちゃってるんで、気にした記憶はありません。見事にノートを取らない一年でした。成績は覚えてませんが、やっぱりたいしたことはなかったように思います。

で、なんだかよくわからないうちに、小学校が終了。卒業文集の将来なりたい職業欄に「科学者」と書く子でした。で、中学校に突入します。

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