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科学哲学の話

天気予報はいつも当たり!?

1997年10月10日 00:00

降水確率50%って、よく天気予報で出てきますよね。 これって、どうしろっていうんでしょうか?
確率50%ってなんなんでしょうかね?

雨が降っても、降らなくても別にいいわけなんですよね。 じゃあ、降水確率10%の時、雨が降ったらどうでしょうか? それでも、やっぱり当たりですよね。
10%なんですから。
降らなくても当たりですよね。

確率って何でしょうか?
予測した出来事が起こってもOK、
起こらなくてもOK。不思議な代物です。

学校の教科書で習う確率の解釈は、どうやら 沢山やってみたら、全体のうちのその比率になる その比率を確率値というというような書き方になってます。

じゃあ、天気予報はどうなるねん。 今日は一回こっきりちゃうんかい? 今日は沢山はないよ。確率値は出てこないじゃない。 でも、50%ってなに?

「いやいや、そういうことじゃないんだよ。」 という人もいる。 沢山やったとしたら、そうなるというだけで、 実際にやってみるわけではないそうだ。 じゃあ、確率というのはそういう物の性質のことなの? たとえば、さいころは6面あって、それぞれの目が均等に 出るようになっている、だから、 各目の出る確率が1/6になるんですか?

でも、それが正しいかどうかはどうやってたしかめるの? じゃあ、やってみるんでしょ。 でも、限られた回数しか出来ないときはどうするの? 1回とはいわなくても、さいころなんか、 場合によっては同じ目が、かなり続いて出ることもある。

それでも、なんで、1/6であると言い続けることが出来るの?

確率ってなんなんだろう? これがよく分らないと、天気予報が何を言ってるかよく分らない気がする。

全体主義

1997年10月 9日 00:00

クワインが提唱した考え。

この頃隆盛だった論理実証主義などの分析的なやり方に対して、 大きな疑念を投げかけた。

細かい議論や思想は他に譲って、若干の論理上の性質を示すのにとどめよう。


この頃主流だったのは、ある特定の仮説をテストするという事が 前提とされた議論だ。

仮説をHとすると、その仮説から、実験にかけることの出来る ある命題Oが演繹されるとして議論されがちだった。

すなわち
H→O
で、Oが真だったら云々、偽だったら云々。
(反証主義参照)
こういう論法であった。

しかし、現実の科学においては、 ある特定の仮説のみからでは、何ら、 特別に実験にかけることの出来る命題を生み出す事はない。
少なくとも、初期条件や、他の補助仮説(例えば、測定機器に関する仮説) と合わさって、ある実験にかけることの出来る命題を生み出す。
であるから、仮説をH、補助仮説をH、 初期条件をTとすると、
H∧H∧..........∧H∧T→O
である。
すると、Oが真であったとしても、確証されるのは、Hそのもではなく、 あくまで全体のH∧H∧..........∧H∧Tである。
そうすると、特定の命題を実験から議論するのが難しい事が分かる。

ちなみに、Oが偽であったとしても、反証も起こり得ないという指摘にもなる。
Oが偽であるから、¬Oは真

H∧H∧..........∧H∧T→O

¬(H∧H∧..........∧H∧T→O)

¬O→¬H∨¬H∨..........∨¬H∨¬T

すなわち、最後の結果より、¬Oが真(Oが偽)なら、それぞれの命題(H、H、T)のうち、どれか一つ以上が偽である という事が分かるだけで、それがどれかという事は決められない。

すなわち、仮説の反証すら行われない事が分かる。
分析的に科学の実像を捉えようという、プログラムには 大きな痛手ともいえる議論だ。

経験主義

1997年9月 8日 00:00

科学とは何かと考える時、喩えどのような立場を取るにせよ、 一つだけ、明快な制約がある。
それは科学、もしくは科学理論が
「我々の経験に関する何かである」
という事だ。

すなわち、科学者はすべからず、経験主義者といえる。
それは、相対主義者だろうが、実在論者だろうが 反実在論者だろうが、科学が我々に経験と一切無関係 とは、主張は出来ないはずだ。

主張の強弱はあれ、科学は経験に関する事を述べようとする試みではある。

しかし、これだけでは、科学とは何かの答えにはならない。
神話でも、民間伝承でも、宗教でも、 我々の経験に関する何かを述べる事はある。
明らかに、経験に関する何かだけでは科学としての要件を満たしはしない。

それより一歩進んだ形で、科学とは何かという解が必要となる。
多くの科学哲学者たちが、それについての様々なアプローチを行なっている。 適切な回答はまだ得られてはいないが。

反実在主義

1997年9月 7日 00:00

文字どおり、 実在主義 に反対する立場である。
しかし、この主張も呼称から来る誤解も多い。

この主張の述べている所は、
世界が科学が述べるように構成されてはない。
(もしくは、将来的に科学がその様になる事を目標としない。)
という点にある。

言い換えるなら、ファンフラッセンが述べたように
「科学の理論はフィクションである」
という言葉に凝縮されるだろう。

しかし、そのフィクションも経験と合致する事は 厳しく要請される。
また、同時に現代においては、同時に そのフィクションに対して整合性も求められる。

すなわち、経験的に適切である事と、 理論の内部の整合性を要求するという点では 科学実在主義も反実在主義も何ら差異はない。

差異はただ一点。それを真だと信じるか否かにある。


さて、反実在主義の主張に対する一番の誤解はやはり 「虚無主義」との混同であろう。
すなわち、

何も実在しない、存在しない。

という主張との混同である。
これまでの議論を見ればわかるように、 あくまでも、反実在主義の主張は

科学が述べるように世界が構成されてない

という点にあるに過ぎない。
むしろ、我々の普通の経験や、普通のものの存在を より強いスタンスで支持しているといえる。


現代の反実在主義者としてはファンフラッセンが著名である。

科学実在主義

1997年9月 6日 00:00

この立場は、手っ取り早く言えば、
科学の理論に述べられている、対象や関係が 科学が述べているように実在する。
(もしくは、 将来的にそうなるといった立場も含む)
というものである。

現代人は程度の差はあれ、たいていは、 科学実在主義者だろう。 今更、分子や原子が実在してないとは普通 考えないだろう。

しかしながら、この立場は純論理的に維持するのは難しく、 さらには近年の量子力学の展開などにより、 現実の科学理論が実在的に解釈しがたくなって 来ていることも知られている。
科学教育の現場でかたられているような 素朴な意味合いでの、科学実在論は現在、 完膚なきまでに論破されてしまっているのは確かだ。

では、現在、科学実在主義はどのような立場に おかれているのだろうか?

科学の理論を評価していくのには、いくつかの段階がある。 まずは、
経験的に適切であること。 すなわち、実験観察に理論が述べる結果が一致していること。
次に、
無矛盾であること。 その理論体系の中での言明が矛盾しないこと。
この2つを満たした時、
この理論を真だと信じる事ができる。

このステップを最後の段階まで認めるのが 現代の科学実在主義である。
この形式でくみ上げられた、科学実在主義の議論は かなり強力ではあるが、元々我々が、実在という 言葉にたくしていた意味合いが維持できているか どうかは疑問である。

代表的な科学実在主義者としては Wilfrid Sellars が著名である。

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