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科学哲学の話

検証

1998年1月20日 00:00

大抵、科学と科学じゃないものの分岐点として、多くの人は、この検証が出来るか出来ないかという事と、検証してみて、合ってるかどうかで確認できると考えがちである。 が実際のところ、この検証がいかなるものかというと、これはこれで難しい。

ここでは一般に科学哲学で受け入れられている、意味の検証理論における検証を考えてみよう。

さて、科学理論を命題の集まりと考える。次に、ここで命題を4つに分類しよう。

一つは、命題の形から、すでに真偽が定まっているもの
すなわち、トートロジー(恒真命題)や矛盾命題である。

もう一つは原子命題。
これは経験的内容からなるもので、実際の経験と照らし合わせれば真偽が定まるもの

そして、分子命題。原子命題とその論理的結びつきからなるものである。
経験と論理を追っていけば真偽は定まるものである。

最後にそれ以外の命題。真偽を定められない命題である。

そして、科学の命題というのは、はじめの三つ、すなわち論理と経験から明確な真偽の定まるものであるとする。
言いかえると、検証というのは、そういう経験と論理で明確に出来るものである。
しかし、ここにあげたような単純な論理と経験のみで真偽が定まるような命題のみで科学が成立しているだろうか?
多くの場合、科学の理論はそのようにはなっていないということが分かった。 そして、多くの科学哲学者は、この検証という概念を放棄し、確証や反証など違った概念によって科学とは何かという問題に取り組んでいく事になった。

道具主義

1998年1月10日 00:00

反実在主義には様々な形態がある。この道具主義もその一つであり「科学の理論は道具である」とする立場である。
ただ、この立場は、先に反実在主義として紹介した最近の反実在主義とは異なる。
この立場はあくまでも、科学の理論は、経験に対しての適切な予測や説明を行える道具に過ぎないと考える。
言いかえると、あくまでも、科学の理論に要請されるのは経験に対して合致する事であり、その理論間の整合性や真であるか否かは全く問われない。
そして、科学の理論において直接観察されないものは実在しないと考え、 あくまでも、実在するのはわれわれが直接観察できるものとしている。

こうした議論において、良く持ち出されるのは熱力学の理論である。
熱力学の法則や式は経験の関係を表現するだけであり、多くの場合 適切な経験に対する予測を行う。そして、道具主義者にとっては、 ここに出てくる、直接観察されない概念である、エネルギーやエントロピーは、実在しないものとして扱われるが、計算上の道具として 必要なものである。
(こうした議論の後にはたいてい、原子の仮定と、実在主義の勝利の歴史の紹介へとなる。しかし、道具主義にして見れば原子も所詮は計算のための道具とみなされる)

歴史的にはマッハやドュエムが支持しかなり説得力のある立場である。
しかし、実際にこの立場は適切であろうか?
「直接観察できる」という概念は非常にあいまいであり、 また現代社会において、科学理論の仮定物(DNAなど)を全く存在しないものとして扱う事ができるであろうか。

操作主義

1997年12月18日 00:00

物理量の意味は、それを導き出す「操作」に よって決まるとする立場。

物理量の意味を議論する時は様々な問題をたいていは はらんでいる。それは科学哲学だろうと、 現場の科学研究であろうと同じである。 違う意味の物理量をきちんと区別して理解しなければ、 何の意味も成さない。
そこで、ある量を得る実験操作によって その意味を規定する。

例えば、我々が「長さ」を議論する時、 巻尺なり定規なりで測定する。 その様な操作で定まったものを長さという。 また、熱量の測定は、温度計と質量などから 行なうことが出来る。等々。

この考え方は現場の実験科学の反映ともいえる。

しかし、大きな難点がある。
一般の科学者の感性から言うと、同一の物理量を 異なる実験操作でも得られるということが多々あるからだ。
たとえば、ものの長さですら、違う長さがたくさん存在する事になる。
A:定規にて直接測定
B:三角法にて測定
この二つですら違うものだ。
ましてや、電流や電圧などは多様な測定原理が存在する。

操作主義では、こうした違う手法で得た物理量はあくまでも 違う物理量なのだ。 それは一致してようが相関してようが、違う意味を持つ 物理量である。

しかし、実験操作を重んじる現場の科学のある面を 捉えた立場ともいえる。

一人歩きパラダイム

1997年12月17日 00:00

久々に書くなぁ。

どうも最近、私の耳に障る科学哲学用語に「パラダイム」と言うのがあります。
その、パラダイム思想が云々と言うことを考えているのではなくて、
「マーケティングのパラダイム変革」だの「政治のパラダイム変換」だの
随所そこかしこで良く見るなぁと思うのですが、このパラダイムの元の意味って なんだっけ?

科学史や科学哲学の世界では、「進化」「DNA」「相対性理論」などなどの用語が、世間一般に用いられるようになることを、科学用語の一人歩きと言って、ひたすら傍観者を決め込んできたように思います。
「企業のDNA」だの「進化する経済論」だの、こうビジネス本なんかから タイムマシンにおける「相対性理論」のような使われ方など、当初意図したものの範囲を超えて、暴走がちに日常に溶け込み出す科学用語がたくさんあります。
こういうのを見ると、科学者の皆様の反応は色々で、
「ふふん」と鼻で笑って無視する人から
「このあほんだらは何言ってるんだ?!」などと目くじらを立てる人まで
千差万別。

しかし、どうも、科学哲学者は、こういう事例を傍観する癖がついたのか、
「パラダイム」
と言う用語の一人歩きについては、今一つ、傍観しているようにおもえます。
これが悪いことかどうかは分からないんですけど。
しかし、経済誌などで、

「日本経済はパラダイム変換を経て進歩してきたが、
そこに一本通った日本企業のDNAがあるので云々」

などと言う言説を目にすると、流石の私も
「このあほんだらは何言ってるんだ?!」
と目くじらの一つでも立てようかしらと思ってしまう今日のこのごろです。


解説

先の言説の何がおかしいか。
時系列が前後の2つのパラダイム間の優劣はなく「進歩した」という言い方は 原則的には出来ないというのがパラダイム思想の根幹。
さらに、パラダイム間は、全く共有するものが無いので「一本通ったDNA」 などと言うものも共有できない。
しかし、そこまで堂々と書かれると、さすがに、こちらが合っているのか どうかを考え込んでしまった。

科学は進歩してる?

1997年12月16日 00:00

科学の世界は日進月歩なんてよく言う。
でも、科学って、ほんとに進歩してるのかな?
たとえば物理学。
これが進歩したから、人が宇宙に行けるようになったんだし、明らかに、科学の成果のように思える。
たとえば化学。
これが進歩したから、プラスチックや、半導体があるんだし、明らかに、科学の成果のように思える。
たとえば生物学。
これが進歩したから、いろんな品種改良された、作物があるんだし、 明らかに、科学の成果のように思える。

でも、これって今の科学じゃなかったら 出来なかったんだろうか?
別に科学の理論が今突然消えたとしても、 同じ手順で操作さえすれば、同じ事が出来るはず。 だったら、科学の理論がなくても出来た可能性は あるんじゃない?
そもそも、この中で完全に科学理論のいう通りにして うまく行ったものがあるのだろうか?
たいていは、元々の理論に、 そこそこの修正を加えているはずだ。 この修正はいったいなんだろう?

でも、多少の違いがあっても、基本的には、 昔より今の科学の方が進歩している。って 言われる。
新しい理論は、今までの現象を説明して、 さらに、今までの理論で説明できなかった現象も 説明できる。
っていうけど、これも本当かな?

たとえば、天動説と地動説。元々あった天動説の理論から 導かれた天体の運動と、 コペルニクスの理論から導かれた天体の運動では 実は、元々あった天動説の理論の方が 非常に実際の天体の運動に一致していたそうです。
これでも、コペルニクスの理論が天動説の理論より 進歩したといえるのかな?

本当に科学って進歩してるの?

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