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科学哲学の話

実在主義と量子力学

1998年4月 6日 00:00

HANS PRIMAS


量子力学の実在主義的な解釈は必要である。


概して、現場の科学者達と言うのは図々しい実在主義者で、
頑固に外部の世界が実在しているということを信じている。
多くの理論家達にとって、この信念は物理理論の唯一の存在
理由なのである。
彼等は、本質的に世界がどのように「存在しているのか」と
いうことを記述したいのである。
しかし、多くの有名な論文や書籍、研究発表では
量子力学実在主義とは両立し得ないということを
われわれに教えている。
もし、この観点が本当なら、非常に困ったことである。
量子力学は最も実験的に確証されている科学理論なので
科学者達はその理論を放棄しようとは考えない。
多くの量子力学上の予測が直感に反しているのにもかかわらず、
ただのひとつも、量子力学に矛盾するような実験結果は
存在しない。
確かに、まだ問題は残っているが、経験と理論との間の矛盾のような
悪名高いものではない。
他方、量子力学の確証の多くは日常の実在主義(everyday realism)に
基づいているので、実在主義を放棄するということも出来ない。
その初期において、量子力学はミクロ世界の理論と認識されていて、
ほとんどの科学者は、彼等が実験器具のミクロ世界と日常世界の
違った存在論を整合的に受容できないということを認識していなかった。
今では、もはやこのような立場を取ることは出来ない。
なぜなら、DNA分子のような、生化学的に重要である量子的性質と
一般に重要である古典的性質の両者を兼ね備えた中間領域(mesoscopic)の系に
おいても、量子力学は正しいということが知られているからである。
科学者達は実験室での経験の中のある種の実在主義を諦めたくはないので、
実際に、量子力学の実在主義的解釈が必要とされている。

多くの哲学者や理論物理学者によって支持されている量子力学についての
哲学的考えは現場の科学者の実践とは両立しない。
量子力学についてのしっかりと基礎付けられた哲学的論文が存在しない
ということは、研究上、教育上、有害な帰結をもたらす。
それにもかかわらず、量子力学は危機的状況に決して陥ってはいない。
問題は、多くの科学者と哲学者達が、最近の量子力学の進展を知らない
という点である。それゆえ、未だに彼等は、観測問題のような量子力学の
概念的問題を限られた閉じた系でしか正しくないような古臭いヒルベルト空間での
量子力学を用いて解こうとしつづけているのである。
はっきり言えば、そんな系は存在していない。
このことは、閉じた系というフィクションを研究することが有益ではないと
いうことを意味しているのではなくて、完全に成長した理論と一時的な試みを
混同してはならないとうことを意味しているのである。
この意味で、Niels BohrやWerner Heisenberg、また、他のパイオニア達の
描いた解釈は、現代の量子力学の概念的問題に満足行く回答を与えはしないのだ。

私は、以下のことを注意深く研究すべきだということを主張したい。

i)
実在主義の意味するところと、古典物理において理解されているような
実在主義から引き継がれた考え方を削除するべきかどうか。

ii)
現代の観点から量子力学の意味するところと、われわれが量子力学について
理解していることにおける哲学的に重要なことというのは、ここ60年において
変化したかどうか。



デカルトの区分、原子主義の死、現代科学の限界


古典物理学と現代科学の大部分は自然は本質的に二つに区分できるという
デカルトの考え方に依存している。心(内部世界?)と物質(外部世界?)
である。
加えて、工学者と実験科学者たちには次のような暗黙の仮定が存在する。
自然は操作しうるものであり、実験によって要求される初期条件は、
研究対象となる物に対して影響を与えない手段(mean extarnal to)によって
生み出すことが出来る、という仮定である。
そして、物理学の第一原理(first principle of phisics)によって
説明されないある種のアクションの自由を実験者が持つことを、
私達は当然のことと考えている。
男の自由には、アクションを実行する能力も含意している。
それは、アクターとしての彼のエッセンスを構成している。
この選択の自由無しには、実験は不可能であろう。
実験科学の枠組みは暗黙の仮定を通じて、このアクションの自由を
構成物として要求している。
伝統的に自由は精神世界に属するなにかとして理解されている。
そえゆえ、軽軽しく、デカルトの二元論を、現代科学が
捨て去ることは出来ない。

多くの科学者と哲学者は、量子力学を近代物理学、分子化学、
分子生物学などの基礎として賞賛している。しかしたまに、
量子力学は原子主義の終焉をもたらしたとして非難されることもある。
物質世界は相互作用する要素系によって構成されているという
歴史上の考え方は、量子力学によって示唆されている構造と
鋭く対立している。
量子力学によれば、物質世界はひとつの全体からなっている。
その全体は決して部分からなっている物ではない。
もし、量子力学をきちんとした(serious)な物資の理論だと考えるなら、
伝統的な形而上学的な仮定を持つ物理的実在の古典的描像を
受け入れることは出来ない。
実際に、物質世界の不可分性と非局所性、そしてその全体主義的な性質は
古典力学で受け入れられている存在論とは両立しない。

物質世界におけるよく確証された全体主義的な特性は、
物質の実在を精神の実在と区別して考えるというデカルトの考え方に、
疑いを投げかけた。
端的に言えば、この考え方は誤りであると。
それにもかかわらず、現代の実験科学において、主観vs客観と言うような
認識論的な二元論を要求する。
量子力学は、実在についての今日の科学における考え方に限界を与え
狭めたのは確かであるが、量子力学はとうの昔にデカルトの二元論を
諦めたというようなしばしば聞く言葉にはなんの根拠もない。
量子系の全ての実験的な研究において、測定器具はたいてい、古典物理、もしくは
工学物理を用いて記述されている。量子力学において、古典物理学以外の
いかなる方法を用いようとも、人間の意識というものが、物理学の論述(discourse)に
入ってくることはない。
Wolfgang Pauliの言葉によれば

~ドイツ語なので略~

実際に、現代の量子力学-全ての実験主義者に用いられているような-は、
デカルトの二元論とのある種の「平和な共存」の中にある。
このことは、決して、デカルトの分割を誤解していないということを
意味してはいないし、非デカルト的な科学を生み出す試みをしては行けない
と言うことも意味してはいない。
しかしながら今日の物理学は、そのようなプロジェクトをはじめる事に
悪意を持っており、技術的にもそういうことをすることは出来ない。
現在は、量子事象を意識の事象に結びつけることは、SFだろうし、
意識の過程の表現を、脳の過程の物理的表現に埋め込む試みも
そうだろう。
物理の領域に意識を含むような理論を聞いたことも無いので、
私には、今日の科学の推論において何らかの飛躍が存在しているという
ことを認識することが好ましいと思える。
この意味において、われわれが自由に利用できる今日のどの物理理論も、
本質的に不充分な理論である。それらは、精神と物質の相補性を
取り扱うことが出来ない。

現代の量子力学は、「見る」部分と「見られる」部分への分割をもつ
工学的なアプローチを要求している。
量子力学のフォーマリズムによれば、この区分は文脈依存であって、
デカルトの区分で特定できる物ではない。
デカルトの分割は、実在全体を外部世界と内部世界への内在的(intrinsic)
分割を要求する。
一方で、工学的量子力学は、実在全体を文脈的主観-客観によるテンソル積分解
を要求する。その分解は、観察される対象と観察器具との間にEPR相関が
存在しないような物である。
この要求は、実験科学の前提条件である。
代数量子力学(algebraic quantum mechanics)のフォーマリズムでは、
観察器具は古典量子系としての表現を持つことを含意している。
量子力学の全ての工学的応用において、意識を持った人間という観察者は、
ボーアの言う意味で「心を持たない観察者(detached observer)」として
実験者をみなすことが出来るという意味で、観察器具の一部である。
同様に、デカルトの分割を古典的領域に置く事によって、量子力学と
デカルトの存在論の直接的な衝突は避けられる。
このことは、人間の観察者の役割を、古典的測定機器の数量表示を認識する
という単純なアクションへ還元するような、観察と記録のデバイスで
しばしば完全に自動化される現代の実験技術に、合致している。
それゆえ、観察する科学者の自由意思と認識というものは、古典物理や
工学において彼等が持っている役割と、全く同じ役割を果たす。
また、宇宙論や生物学的な進化において、意識を持った存在者の存在に
依存していない客観的な出来事やコード化や表記がが存在している。
それらの理由から、一般に、可能性から事実への不可逆な遷移は、
人類学的な準備や表記上の手続き、さもなくば人間という観察者の意識には
全く依存しないと結論する。



実在主義


歴史的なコペンハーゲンの観点は量子力学を普遍的な理論とはみなさない。
前提として、観察器具は量子力学的には記述されないのだ。
コペンハーゲンの見方によれば、量子力学は、量子事象の確率の計算の
規則を与えるだけであって、事象それ自身を記述する物ではない。
この態度は、量子力学の黎明期において、合理的であった。
なぜなら、当時、開いた系とその環境との相互作用を記述する数学的
道具が利用できなかったからだ。
量子力学の観点から現代の分子科学や分子生物学の現象を分析するのには、
コペンハーゲンの見方では充分ではない。
分子や中間領域の科学において、中間領域や巨視領域の系を含み、
量子的性質と古典的性質を兼ね備え、客観的なやり方で個々の
力学的過程を記述できる、分子領域全体において普遍的に正しい理論が
必要である。

古典物理学の原子主義的な見方は量子力学の全体主義的な見方とは
全く違うので、古典物理学で用いられている実在についての伝統的な考え方と、
量子力学で要求される実在の考え方は衝突する。
しかし、これは単に衝突でしかない。
哲学者達は、彼等の試みにおいて、実在主義によって意味されるであろうことの
表記を与える事に十分な注意を払っていないからである。
大多数の伝統的実在主義哲学者の見方と言うのは近代科学の結果と
両立し得ない。

実在主義の主張についての多くの定式化は、科学の領域にその主張を持ちこむと
評価が困難になってしまうほど曖昧な物ばかりである。
しばしば、そのような定式化は、物質世界の根拠の無い仮定と、
全くいいかげんに結びつけられている。
たとえば、次のように言われたりもする。
(恐らくは何らかの近似的なやり方だろうけど)実在主義的解釈において、
理論語は純粋に世界の中に存在している対象を参照している。
こういった特徴づけは認められない。
なぜなら、世界の物理構造の特殊な仮定をしているからだ。
すなわち、世界は整合的で、しっかりと定義されて、
独立に存在している対象から構築されているという仮定だ。
現代の量子力学の観点から、(物理空間においてはっきりと
局在化していると暗黙のうちに仮定される)「物質的対象」を
「物質的実在」にアプリオリに特定するということは、受け入れられない。
なぜなら、-「物質的対象」の正確な意味がたとえなんであれ-
独自性(individuality)を持たない、EPR相関で絡み合ったような系を
想像すべきであるからだ。
量子力学は「モノが本当のところなんであるかのようなこと」を記述しない。
なぜなら、量子力学によれば、絶対的な意味合いにおいて、
いかなるモノも存在しないからだ。
同様に、巨視的対象もEPR相関によって相関している。
われわれの元来のパターン認識のメカニズムや常識についての考え方に
対応した記述は、そのようなEPR相関は無関係ですと断言した場合にのみ
可能になる。
科学はそのような抽象概念なしには存在し得ないので、そのような要求は、
不合理ではない。
全ての科学的記述は、結果に影響するけれどもそれを無視すると決めるような
決断に依存する。
それにもかかわらず、要素粒子(電子のような)から物質がなっていると
主張しなければ、量子力学は文脈依存的実在主義解釈を許される。
われわれは、物質の実在を-近似的環境下で-要素系を用いて記述できる
より賢明である定式化を用いるべきである。
そうすることによって、要素系を用いて最もよく記述されたやり方によって、
適切な実験条件のもとで、物質の実在の客観的な性質を明らかにすることが
出来る。

科学理論において、実在主義の問題は、物質の実在の存在論的身分の問いである。
また、それは観察されない。
科学で利用できる手段では、外在的実在の存在を証明できないので、
いかなる実験的にテスト可能な物理的内容から自由で、
物質世界の特定の区分化を仮定することなく、
われわれは、実在主義を純粋に形而上学的な規則原理として
認識しなければならない。
さらに、物理的対象の潜在的な、もしくは顕在化した性質の役割の研究は、
物理学の仕事であって、哲学の仕事ではない。
古典物理学において、全ての潜在的性質が顕在化されると素定する
ことは許されているが、そのような規約が常に論理的に可能である
と仮定することの理由はアプリオリには存在しない。

科学の問題と言うのは、独立した実在の存在を証明することではなく、
人間の経験とは独立して存在する実在に関する近似的規則原理が
有益で、量子力学のような基礎理論のフォーマリズムと両立し、
他の全ての実験結果とも両立するということを示すことだ。
さらに、実在主義の考え方は、古典物理から出てきた構造や、
原子主義、局所化可能性、可分性、決定主義といった、特定の物理に
ついての考え方と結び付けるべきではない。
私は、次の実在主義の特徴を受け入れよう。

(i)
我々の認識とは独立に物質世界は存在する。

(ii)
物質の実在の私達の知識は意識の外の出来事にも依存する

(iii)
物理の諸理論は物質の実在のある内在的側面を参照している。

この特徴づけでは、実在主義はあらゆる種類の対象の存在を肯定も
否定もしない。
さらに、物質の実在の観察可能な側面のある特質が我々の心の組織化に
従うということを否定はしていない。
実際に、外の世界の常識的な記述は、常に観察者の心理的性質に依存する。

工学的領域を含む理論の枠組みにおいて、次の規則原理を付加するのは
合理的であろう。

もし、普遍的に正しい物理理論が工学科学の領域に限定されるなら、
付加される実在主義的解釈は、控えめに、工学世界の日常的実在主義を
与えるべきであろう。



中間領域、巨視領域と開いた系の量子力学


実際の量子力学-現場の科学者が使っているような-は、厳密に特定された公理系に
基づいているのではなく、ろくに定義されていない「第一原理」と働いている規則の
集まりに基づいている。
歴史的なヒルベルト空間によるフォーマリズム-1932年にフォンノイマンによって
紹介されたような-はlocally compact phase spaceに限定されている。
すなわち、この理論は厳密に閉じた系に限定されていて、たとえば、
電磁場で荷電した粒子の相互作用数学的に固有の記述を許してはいない
(無限に多くの自由度を持つ系における場合のような)。
結果として、公理的ヒルベルト空間フォーマリズムは本質的に不可逆過程や、
対称の破れの可能性を含んではいない。
基本的な物理学の対称性の破れの重要な事例は古典的オブザーバブルの危機である。
すなわち、全てのオブザーバブルが可換で、古典力学のオブザーバブルのように振舞う
オブザーバブルの危機である。
フォンノイマンによるヒルベルト空間の定式化は、ある石に基づいている。
ある石-フォンノイマンの聖典のような交換関係の表現に対する一意性定理である。
この定理の当然の帰結として、有限の自由度において、自発的な対称の破れは
存在しないし、いかなる古典的オブザーバブルも存在しない。
伝統的ヒルベルト空間の定式化はそれらの性質を説明できないという事実から、
いかなる哲学的帰結も描かれたことはない。
その回答はほとんどトリビアルだ。
石とフォンノイマンの一意性の定理は、対称性の破れと古典的オブザーバブルが
過度に制限された定式化において不可能であるということを述べている。
すなわち、フォンノイマンのヒルベルト空間フォーマリズムは、
普遍的に正しい理論としてみなすには不適切な量子力学の定式化である。
それのストレートな一般化であるFock空間の量子場理論は理論的に不整合である。
中間領域と巨視領域の物理を説明できない定式化に基づいた量子力学の
実在主義的な解釈を考えようと試みるべきではない。
幸運なことに、量子力学を、歴史的なヒルベルト空間の定式化やFock空間の定式化と
同一視すべき理由は存在していない。

もし、量子力学を原子、分子、中間領域、工学領域において、普遍的に
正しいとみなすなら、この理論の適切な数学的定式化は、分子や工学の全ての現象を
記述できなければならないということを要求すべきだ。
小さな分子ですら古典的性質を持つことが出来るのであるから、古典的振るまいと
言うのは巨大系の特徴的な性質ではない。
分子超選択則と分子古典的オブザーバブルの存在は化学や分子生物学において
経験的によく知られている事実だ。
ある分子のキラリティ、DNA螺旋分子の結び目、そして、化学物質の温度などは
分子古典的オブザーバブルの全く違った三つの例だ。
そのような経験的な事実はアドホックな現象主義的なやり方で記述されることが
出来るが、量子力学の第一原理からそれらの現象を説明することは困難である。
物質の普遍的に正しい理論は記述するだけではなく、生化学分子のキラリティ
(Lアミノ酸、Dシュガー、リピッド、ステロイドのような)が
古典的オブザーバブルであるというこを説明できなければならない。
分子レベルでの伝統的量子力学の重ね合わせの原理のこの破れの実在は、
深刻な出生障害を伴う恐ろしいサリドマイドの悲劇(Contergan tragedy)を
引き起こした。Conterganはサリドマイド(3-phtalimido-2,6-dioxopiperidin)の
商標で、二つのエナンチオマーの構造体が存在する。
サリドマイドの左手のアイソマーは強力で安全な睡眠薬である。しかし、右手の
アイソマーは奇形要因で、胎児が大きくなるにつれ悲惨な生理学的な奇形を
引き起こした。

工学の領域で、量子力学は原理的に測定器具や実験室内の
あらゆる装備の記述を与えることが出来なければならない。
それゆえ、完全に成長した量子力学の定式化は、古典的な点力学や
カオスの非線形力学系、連続体の力学、流体力学、古典的統計力学、
相変換を含む熱力学、Maxwellの電磁気学、Newtonの重力のような
十分成功した工学理論を含んでいなければならない。
中間領域において、まったく同一の対象から量子的性質と古典的性質の両方が
現れるということは別に突拍子もないことというわけでもない。
しかし、それらは「対応規則」では理解できない。
それらの記述は、特殊事例として伝統的量子力学と古典力学の両者を含む
血の通った理論を要求する。
たとえば、DNA分子-遺伝情報の物質的キャリアー-は、光化学的光学活性のような
量子力学的な記述を明らかに要求する重要な性質を持っている。
他方でDNA分子は、遺伝子の再結合に生物学的に重要で明らかに古典的な3級構造を
持っている。
さらに、DNA螺旋分子は結び目を持っていて、その結び目のタイプを変える酵素も
存在している。
DNA分子の結び目のタイプは、いかなる対応原理をもってしても説明できない
古典的性質の例である。
分子生物学はそのような交じり合った量子-古典系の宝庫である。
酵素は分子測定器のように振る舞い、その機能には古典的な振る舞いが要求される。
免疫系は、ここの分子の個別性を保証して、古典的にだけ記述可能なメモリーを持つ
分子量子系である。
そのような系を理解するためには、単一の個別の分子の量子的性質と古典的性質の
両方を記述できる物質の理論を必要とする。
量子的振る舞いと古典的振る舞いの交差点はBohrの対応規則では
与えることは出来ないので、分子量子力学の最も重要な理論上の問題は
量子的対象の環境と古典的自由度を持った個別的で、小さく、孤立していない
量子的対象の相互作用の正しい分析である。

全ての科学研究において、宇宙全体を対象系とその残りである環境へと
分割する。
過去の量子力学で許されないほどに無視をされていた環境は、
バックグラウンドとして働く。
環境無しの物理的対象という考え方は、非常に乱暴でちぐはぐな抽象化である。
Eddintonはその遺作Fundamental Theoryにおいて、バックグラウンドの考慮の
不可避性について注意を促している。
「環境というのは考慮の外においてはならない。
宇宙の物質の残りの部分の全てを全部消し去るということを含意する条件での
原子の振る舞いの定式化を展開させるというのはあまりにも横着であろう。
相対性理論において、我々は原子の概念をそれ自身で完成しているものとしては
認識していない。
山のことを、それが立っている惑星なしには考えられないように、
原子のことをそれが入っている環境のことを抜きにして、これ以上
考えることは出来ない。」
それゆえ、実際の理論の抽象化された構造は、研究対象の環境の
本質的な特性を記述するだけ十分豊富で複雑でなければならない。

完全で、数学的に厳密で、経験的に適切な開いた量子系の理論、
中間領域や巨視領域の量子系の理論は、未だに非常に渇望されている。
しかし、代数量子力学を用いれば最も良い数学的ツールを使うことが可能の
ように見える。
代数量子力学は新しいものではないが、物理的にも数学的にも適切な量子力学の
定式化(formulation)である。それは量子力学の特有の適切な定式化のひとつに
しか過ぎない。
アドホックな修正も、隠れた変数も、量子化の手続きもまったく不要である。
代数量子力学はあらゆる種類の物理系を含んでいる。
たとえば有限系(locally conpact phase spaceを持つ)、
無限系(locally conpactではないphase spaceを持つ)。
有限系と無限系の振る舞いには劇的な違いがある。
Stoneとフォンノイマンによる一意性の定理によれば、
有限系は一意のヒルベルト空間の表記を持つ。一方で、
無限系は無限に多くの物理的に不等価なW*-表記を持つ。
それは、自然における観察可能な現象の驚くべき複雑性を
説明している。

代数量子力学の枠組みでは、開いた量子系では、対象性が破れ、
古典的オブザーバブルを所有することが証明される。
文脈的古典的オブザーバブルは、新しい文脈的なトポロジーとともに
内在的なオブザーバブルの代数によって生み出されという意味で
現れている。しかし、それらは、内在的オブザーバブルの関数ではない。
出現した古典的オブザーバブルの典型的例は熱平行にある系の温度である。
動的な量子系の文脈的古典的部分は常に統計的に動的な系である
ということがわかる。
本質的なやり方で、それはプランク定数に依存しているが、
それにもかかわらず、古典力学の法則にしたがっている。
加えて、古典的オブザーバブルの出現は調査する系の巨視的性質には依存していない。
すでにより小さな分子でも古典的性質を持つことができる。



内部物理的(Endophysical)記述と外部物理的(Exophysical)記述


明らかに、現代の量子力学は物質の究極理論ではない。
しかし、たとえ真なる普遍的な究極理論を手にしたとしても、
観察される現象を記述するのに必要な情報全てを我々に与えることはないだろう。
「普遍的に正しい」という文は文字通りには正しくない。なぜなら、
全てのものを含む言語は、意味論的には閉じていなければならず、
それゆえ、二律背反を生み出すからである。
完全な記述の不可能性は、理論の能力ではなく論理的必然性による。
それ自身を検証する手段を記述しようと試みるあらゆる理論は、
必然的に自己参照的である。
自己参照のパラドックスを避けるために、少なくとも2階層持った理論を必要とする。
その理論では、2階層目はメタランゲージと呼ばれる別の言語で定式化されて
いなければならないメタ理論をあらわしている。
このメタ言語は、基本的な物理学の言語より本質的に豊富な内容をもつ。
もし二つの言語が同一なら(もしくは翻訳可能なら)自己参照的な文を持つ
意味論的に閉じた言語である。
そうすると、我々は世界を二つの部分に分けるべきである。
観察される部分と観察する部分に。
我々の記述はこの切断に依存するが、この切断はいかなる究極理論からも
導出されないのだ。
それゆえ、仮説的に素定された普遍理論は少なくとも、ほんの小さな領域では
あるけれども、完全な実在の一部を記述することができる。
物理は彼らの研究から認識の主題を排除する。
物理は人の自由の中の人の実在を取り扱うことは一切知らない。

続いて、現場の仮説を次のように受容する。代数定式化した量子力学は、
原子、分子、中間領域、非宇宙論的巨視領域において普遍的に正しい。
基礎物理理論としての量子力学の信頼性についての自信は
実験室での実験による確証によって本質的に基礎付けられている。
すなわち、工学の正しさも自由をもった実験の誤謬性も仮定されているのであって
量子力学の第一原理からは導出されない。
意識や自由意志が脳の状態のような有機物の物理的性質に還元できる
とは仮定しない。
選択や目的のあらゆる考え方は物理の第一原理からは導出できない
適切な規則原理に含まれるべきである。
明らかに、そのような規則原理は我々の世界描像において中心的な役割を果たす。
それらの素定は、内部物理と外部物理という区別をする必然性を導き出す。
この有益な区別は、Otto RosselerとDavid Finkelstainによって作られた。
彼らの考えとは使い方を間違っているかもしれないけれども、
その言い方を受け入れよう。

いかなる観察者という概念も含まない厳密に閉じた物理系を内部系とよぶ。

もし内部世界が観察する部分と観察される部分に分かれているなら、
それは外部物理的記述をしていることになる。

コミュニケーションツールを持つ観察者の世界を外部系とよぶ。

外部物理と内部物理は違うということに注意しよう。
我々の知る全ての本質的に普遍的に正しい第一原理は厳密に閉じた系を参照している。
それゆえ、内部物理に属する。
それらは普遍的に正しいことが仮定されているけれども、それらを操作することは
出来ない。厳密に言えば、内部系の外には何もないのである。
内部物理的記述はありえない展望からの眺めなのである。いわば、神の視点、
「どこにもないところからの眺め」なのだ。

すでに、量子力学のフォーマリズムは電子、原子、分子のような量子系が
世界の残りの部分と絡み合っているということを予測している。
そして、それらは、「実際に存在する」個別のモノに対する可能な候補者では
ありえない。
量子力学を全体主義的な理論として受け入れるなら、
整合的な実在主義のあり方は、ひも、クォーク、電子、原子、分子のような
かっちりと構築した塊としての独立した存在を素定することは出来ない。
特定の観点から物質を記述するためにそのような塊を構築するが、
世界は、そのような塊から作られてはいない。
この洞察は、量子力学は本当のところ何があるのかということについての
お話であるという見方とは矛盾しない。
客観性は、分子、原子、電子、クォークなどといった
経験の向こうにあるモノのなかにあるのではない。
それらは、単なる物質的な実在の現れでしかない。
基本的なレベルで対称性のような違った側面を強調しなければならない。

第一原理は自然法則ではないけれども本質的な考え方ではある。
ある程度までは、第一原理としてみなすものや、パラダイム上の実践の規則
としてみなすものは好みの問題でしかない。
可能で適切な限り、第一原理は文脈から独立である。
そうした理由で、第一原理はすでに日常的感覚からひどくかけ離れている。
全ての有力な第一原理は高い内在的な対称性を持つ状況を参照している。
経験が、対称性が第一原理を選ぶ有効な基準であるということを教えてくれる。
そうして、最大の対称性は内部物理の第一原理の典型的特長であるという見方を
受け入れる。
そのような本質的対称性は日常の領域ではルールとして明らかではない。
Pierre Curieが明らかに認識していたように、それらの対象性が破れるのは
必然的である。

~フランス語なので略~

すなわち本当の内部物理の対称性は経験によっては直接的に
受け入れることは出来ない。それらは、経験的に、外部物理の対称性が
破れることによってのみ見出される。
この説明において、対象性の破れを示す全ての規則や法則が文脈依存で
特定の外部物理の記述に属していることを考慮している。
たとえば内部物理に対して、時間の対称性で特徴付けられる2方向の
決定主義的な時間発展を素定する。その一方で、ほとんどの外部物理的記述の
時間の矢は、時間対称性の破れを明らかにする。

量子内部物理は物理実験で何が起きているかを予測できない。
なぜなら、内部世界においていかなる観察器具や観察者の概念も
存在しないからだ。
厳密に決定主義的な理論は人間の観察とは独立して存在する実在の記述を
組み立てる。
量子内部物理が決定主義的であるという事実は、内部もしくは外部の観察者に
よって決定できるということを含意していない。
内部物理的記述は内在する存在(immanent ontology)を参照して、
操作できないやり方で、独立した実在を描いている。
世界の全ての操作的記述は、観察される部分と観察する部分の切断を
導入することによって、内部物理の記述から外部物理の記述への遷移を
要求している。
外部物理的記述はd'Espagnatの意味で経験的実在を参照している。
内部物理の第一原理は外部系を特徴付けるのには不十分である。
なぜなら、全ての外部物理的記述は内部物理の原理に依存するだけではなく
切断の選択にも依存するからである。
この事実は、内部物理の記述から外部物理の記述への移動は出来ないということを
含意はしていないが、そのような試みにおいては、付加的な規則原理を必要とする
ということを含意している。
それゆえ、全ての外部物理的記述は文脈依存であり、少なくとも弱い客観である。
(同一の切断を選択する観察者間の間主観的同意という意味で)

逆の問題として経験所与から知覚している主体とは独立した世界描像を
構築することがある。
専門用語を使って言えば、操作的に受け入れられる外部物理的記述から
推測される内部物理の論理的に整合している再構築である。
内部物理的な内在的存在論の理論構造は、実在化の問題として認識されうる。
すなわち、基本的理論によって含まれる物質の実在の全ての側面の適切な全ての
外部物理的記述を、適切な規則原理を持って、我々に許すような
存在論的に解釈された理論構造について問ている。
この実在化の問題は、主に整合性の問題である。
それが一つの解を持つなら、それはたくさんの解を持つ。
我々は、ある最小性の要求(オッカムのかみそり)によって、
そして、それによる工学領域での制限が、古典力学でほとんど普遍的に
加えられていた実在主義を与えることができる存在論を加えることによって、
この非一意性を減らすことができる。
それゆえ、内部物理は世界がこのようになっているという
文字通りでの真なるストーリーにはなりえない。
内部物理の実在の考え方は両立可能でもなければならないが、
経験所与からの導出は可能ではない。
アインシュタインの言葉を借りれば、
「存在(Being)とは常に我々によって心に生み出されている何かだ。
すなわち、(論理的な意味で)自由に素定する何かだ。
そのような構成物の正当化は感覚によって与えられるものから
導かれたものの中にはない。
(論理的な推論可能性という意味で)そのような種類の導出は、どこにもなかった。
前科学的な考えの中にですらないのだ。
我々に実在を与える構成物の正当化は感覚的に与えられるものを分かりやすくする
それらの能力の中にのみあるのである。

準微視的エンティティーは存在するか?

1998年4月 1日 00:00

科学者でない人は電子や遺伝子や他の科学者が語るエンティティーが
存在するものとして考えるべきかどうかがわからるのだろうかと悩む。
科学者自身も、この問題に対して彼らがどのような立場にあるかを
言うことは困難である。
ある人は次のように主張したい。
それらのものすべては、現実のもので、
テーブルや椅子やバスと同じような意味で存在している。
しかし他の人はそのような人々には困惑を感じる。
そしてそこまで進むことはためらう。
電気的現象の研究から電子の存在を確立することと、
砂漠のなかのくぼみから未開人の存在を推論することと、
患者の兆候や症状から盲腸炎の存在を推論することに、
違いがあることに彼らは気が付いている。
電子という言葉を用いて電磁気について語るのは、
患者が説明できない熱がある時に原因不明の発熱を述べるのに少し似ている。
しかし、電子の理論はあるやり方で電気的現象を説明できる。
そのやり方では、
発熱のような専門用語に単に翻訳しただけでは、病人の熱を説明できない。
そして我々はおそらくは次のように尋ねるだろう。
結局電子が実際には存在しないのなら、
どのようにして電子の理論は働くのだろうか?


このやり方で述べると問題は混乱してしまう。
それゆえ、もう少し注意深く問題を吟味しましょう。
ロビンソンクルーソーの発見と、物理学者の発見を比べる時
その違いは発見の種類だけではない。
どちらの事例で存在を述べることも多くのシフトを含んでいる。
そして、あまりにもすばやく、その用語の一つの使い方から
もう一つの使い方へと移ってしまうので、
我々は不必要に問題を難しくしている。


ものが存在するということについて我々が語る時、
いかなる違った考えを心に抱いているかを考えなければならない。
もし、ドードーが存在するかどうかを、すなわち
今日何処にもドードーが住んでないのかどうかを尋ねるとき、
我々がその種が、生き残っているのか絶滅したのかを尋ねている。
しかし、電子が存在するかどうかを尋ねる時、
我々は、電子が絶滅する可能性などは全く思いもよらない。
この問いをいかなる意味で尋ねたとしても、
その場合においては、
「存在する」ということは「もはや存在しない」
ということの対比ではない。
では再び、ルリタニアは存在するかを尋ねるとき、すなわち、
ルリタニアのような国が存在するかどうかを尋ねる時、
我々は、実際に、ルリタニアのような国が存在するかどうかを尋ね、
それは創造上のものかどうかを尋ねている。
そしてそれは存在しない。
しかし、我々は、電子がなじみのあるものの事例か存在しないものかを
尋ねることに関心はない。
我々の「存在する」という用語の使い方は、
「存在しない」ということをそれと対比させるやり方ではない。
Man Fridayからドードーへと移るとき、また、それらからルリタニアへ、
さらに電子へと移るとき、
それらの場面の性質をもった変化はそれと共に他の変化をもたらす。
とくに、「存在する」という語を含む文はそのやり方で理解されなければならない。


そうすると、「電子は存在するのか?」というのはどうなるだろう。
これはどのように理解されるべきなのだろうか?
ドードーやルリタニアよりよい類似の例は、次の問いに見いだされる。
「輪郭線(等高線)は存在するか?」
赤道は地球の中心のまわりに引いた想像上の線だということを読んだこどもは、
等高線や経度線やその外の線もそうだといって指摘する。
それらの線は地図上に、町や山や川に沿ってあらわれる。
こどもはそれらが存在してるかどうか聞く。
どのように答えるべきか?
「等高線は存在するか?」という大雑把な表現の問いをするなら、
即答することは不可能だろう。
この問いに対する唯一の答えは「yesかつno」だ。
それらはたしかに存在する。けれども存在するのか?
それはあなたの話し方によってくる。
そうすると、問いを注意深く言い換えるだろう。
「同じ高さのところに実際に線が引いてあるのか?」
そして再び答えは「yesかつno」だ。
なぜなら、線はある。しかし、それはあなたが線と読んでいるであろうものではない。
実際の質問が次のようなものであるということがはっきりするまで、
こういったすれ違いの問答がつづくだろう。
「テニスコート上の白線のような何か目に見える地形上の等高線が存在するか?
それとも、実際には何の対応物もない、
cartograghicalの道具(たぶん表記法のこと)でしかないのか?」
これが唯一のあいまいではないやり方で提出された問いだろう。
こどももが等高線が存在するのかとたづねるときの「存在する」の意味は、
存在するが、もはや存在しないとか現存しないということの対比ではなく、
単にフィクションであるということの対比であるときの意味だ。


このことは、「存在する」という語が原子や遺伝子や電子や場や
その外の物理科学におけるエンティティーに使われるときの意味である。
「それらが存在するのか?」という問いは、実際に次のようなものである。
それらを示すなにかが存在するのか、それらは理論上のフィクションでしかないのか?
現場の物理学者に対して、ニュートリノは存在するのか?という問いは、
ニュートリノをそれを目に見えるようにすることによって生み出すための
招待状として作用する。
もしこのことを為すなら、ニュートリノという語をしめすなにかを持つだろう。
それをすることの困難さは、その問題の固有の困難さを説明するものである。
なぜなら、我々が準微視的エンティティーの存在をについて問う時のみ、
その問題が明確にあらわれるからだ。
準微視的エンティティーとは普通の基準では目に見えないものである。
必然的に、ニュートリノを生み出すことは、
ドードーや9フィートの男を生みだすより洗練されたビジネスでなければならない。
我々の問題はそれにしたがって、ニュートリノや遺伝子を生み出すこととして
見做されることを決定するために必要なことによって複雑にされている。
いかなる種類のものが見做されるのかは明らかではない。
しかしながらあるものは、科学者によって、一般に、
受け入れることができるものとして見做されている。
たとえば、霧箱中のα線の軌跡や、電子顕微鏡写真、次善のものとして、
ガイガー管のクリック音。
彼らはそれらのような際立った証明を、
(関連するエンティティーの存在する証拠と見做すこと)
芝生のうえに生きるドードーを示すのに十分似ているものと見做す。
たしかに、もしそれらを不十分であると拒否したなら、
我々が合理的に尋ねるべきことを見いだすのが困難になる。
存在するという語はそのようなものに対するすべての適応を持つべきであるなら、
これはそれであってはいけないのか?


そのような証明が可能でないなら、どうなるのだろう?
ニュートリノが存在するということを目に見えるように示せないのなら、
そのことは、必然的にそれら(たぶんニュートリノのこと)の終わりではないのか?
そんなことはない。
好まれる型の証明ができないときに起こることに気が付くことは価値がある。
なぜなら、そのとき、電子や遺伝子の存在を語ることと、
ドードーやユニコーンの存在を語ることの違いが非常に重要になるからだ。
たとえばもし、わたしがユニコーンや9フィートの男についてもっともらしく語り、
それらを示すものをもっていなかったり、
その標本をどのような環境下で見られるかを言うことができなかったりしたなら、
次のような結論が合理的だろう。
9フィートの男は想像上の産物であり、ユニコーンは神話のなかの生きものである。
どちらの場合もわたしが述べたものは存在しなかったものだと考えられるし、
すなわち、信用できないことで、そんなことはなかったと考えられる。
しかし、原子や遺伝子の場合は少し違う。
「これだ!」と指摘することができる環境を記述したり、
持ち出したりすることができないからといって、
ユニコーンの場合と同じように、それらを信用しないといううふうに扱う必要はない。


存在することをしめせない理論的エンティティーすべてが、
存在しないもの(non-existent)として主張される必要はない
それらにとって中道が存在する。
たしかに、写真や他の証明が与えられるまで、
理論的なエンティティーが存在すると主張するのはためらうべきである。
しかし、そのような証明が与えられないだろうと信じる理由をもっていたとしても、
そのエンティティーが存在しない(non-existent)というの行きすぎである。
なぜなら、この結論は、豊富な説明上の概念として疑う必要のなかったものまで
信用しないという印象を与える。
そうすることは、地面の目に見える印がないからという理由で、
等高線の考え方を取ることを拒否するのに似ている。
その考え方が捨て去られなければならないという結論は、
フロギストンや熱素、エーテルのように、
すべての説明の豊富さを失ったときにのみ正当化される。
もし科学者が、それらの説明において、存在することが示されるであろう
エンティティーのみを参照しているのであれば、
疑いなく彼らは幸せであろう。
しかし、科学の発展の多くの段階で、
それほど厳密のこの条件を主張する事は出来ないだろう。
科学理論は、それにおいて現れるエンティティーが
実際に存在するかという問いが提出されるより先に、
しばしば受け入れられ、長い間活躍し、さらに長い期間で進歩していくだろう。
科学の歴史はこれに関する顕著な例を与える。
十九世紀において、理論物理と化学は原子や分子の概念に関して発展してきた。
一つは物質の運動論。それの物理学への寄与は、壮大なものであった。
もう一つは、化学結合と化学反応の理論。それは化学を精密科学へと変えた。
どちらもそれらの概念(分子、原子)を用いており、
それらを用いることなく説明することは不可能である。
1905年になると、アインシュタインによって、
ブラウン運動の現象が原子や分子の存在を証明するものとみなされることが
しめされた。
そして、それまでは、ノーベル賞授賞者のオストワルドでさえ、
原子の存在については懐疑的であった。
(化学者として働いている彼にとっては、それらの概念は必要不可欠なのだが。)
さらに1905ねんには、原子論が、物理学の究極の到達点ではなくなった。
その基礎のあるものは攻撃され、ボーアやトムソンの仕事は、
物質の構成についての物理学者全体の描像を変えるきっかけになった。
そうすると逆説的に、
偉大な科学者が、
原子の概念がフィクション以上のものではないとみなしたときに、
原子論の主要な勝利は達成される。
ということを見出すだろう。
そして、古典原子論が物質の構成の基本描像としての立場を失いはじめたときに
原子は明確に存在することが示される。


あきらかに、そうすると、理論上のエンティティーの存在や実在についての問いを
描像の中心に据えるのは行きすぎた誤りであろう。
理論を受け入れるときに、科学者は、どちらのやり方でも、
それらの質問から初めたり、それらに答えたりする必要はない。
Knealeが示唆したように、
理論を表現するのに用いられる全てのものの存在を信じるということに、
それによっては、コミットしない。
これを仮定するということは、マンフライデーの様々なあやまりである。
実際に、理論の中で述べられているエンティティーが存在するかどうかの問いは、
理論がある受け入れられた立場を持つまで、
意味を与えることが出来ないようなものである。
状況はむしろ次のようのものであろう。
動いている光の概念との結びつきで我々が出会うものだ。
光は動いていると語る物理学者がそれが動いているということについての
何らかの仮定をしていると、
仮定することは自然に思える。
調べてみると、そうではないことが分かる。
それが動いているということは何かという問いは
その概念を用いて説明している現象を超えることなく
それを問う事はできない。
同様に、科学者が、目新しい概念を導入している新しい理論を受け入れる時、
その理論を表現するのに用いられるものが存在するという信念に
コミットさせられていると仮定するのが自然に思えるだろう。
しかし再び、例えば、遺伝子が実際に存在するかどうかという問いは、
遺伝子によって説明される現象を超えた所にある。
科学者にとって、彼の理論のエンティティーの実際の存在は、
単なる理論的虚構であるものに対比させられる。
はじめに説明することに成功したという事実は、
存在に対する問いに対しては開かれたままである。(まだ解かれていない)


このマンフライデーの形とは逆のものも存在する。
理論に含まれているエンティティーの存在についての視覚的な証明が
生み出されるよりはるか以前に、
理論が受け入れられるであろうことを考えると、
桐箱の写真のようなものは、むしろ過大評価であると
結論付けたくなる。
実際に、それらは、物理学者が幻覚の結果として述べているものを
我々にもたらしていると結論付けたくなる。
Knealeは、霧箱から得られた結果や、その外の物理実験の結果によって
物理の理論が成立することも棄却されることもないということに基づいて、
その結論に進んだ。
しかし、これは全く違う二つの問いを混同している。
理論の受容可能性の問いと理論のエンティティーの実在の問いだ。
切り箱の写真を電子やα線の実際の存在を示すものとしてみなすことは、
原子構造の現在の理論を受け入れる為の基礎の中にある
優先的身分を、切り箱に与えることを意味する必要はない。
切り箱が開発されるより前に、
それらの理論は受け入れられ発展していた。
それにもかかわらず、切り箱は、
原子核、電子、α線やその外のものがどの程度実際のものとして考えられるか
ということを、顕著なやり方で示している。
いわは、説明上の虚構以上のものとしてである。

複雑性についてのある注目点

1998年3月 7日 00:00

Patric Suppes

NelsonとSimonについての私の注目点は、彼等の書いていることを
読んだり学んだりすることによって生み出される疑問について
彼等が言っていることの批評というほどの物ではなく、
ちょっとした方向付けである。
私の疑問は本質的なことであると言うことを強調したい。
それらは、複雑系の本性についての明確ではっきりとした見方を
位置付けるレトリックなデバイスではない。
私の注目点を7つの項目にして述べて行きたい。


1.ファジーの概念


このシンポジウムのオフィシャルなタイトルが「複雑なファジー系」
であるに関わらず、NelsonとSimonは系が単に複雑系ではなく
複雑なファジー系であると述べることが意味することについて、
全く時間を費やさなかった。
おそらく、シンポジウムの主催者は、Zadehによって導入された
ファジーの概念を考えているのだろう。
Zadehや他の人々によって書かれた多くの物を私は好むが、
このシンポジウムでは、NelsonとSimonが暗黙的に避けるという姿勢を
理解は出来る。
ファジー性の飾り付けを加えなくても、複雑性を取り扱うと言うのは
充分に困難な問題である。
論文の最終稿で、Nelsonは、ファジー性についての一般的な注目点を
たくさん付加したが、発展した広範な技術的やりくちを用いなかった。
私が思うに、こうするのは正解だろう。複雑性の理論は、
まだ余りにも原始的で、ファジー概念の記述に現在広く使われている
技術的なやり口を加えることは出来ない。


2.複雑性と衝突


Nelsonは、複雑系の特徴として、目的の衝突を含むべきだと強調した。
Simonの言うことと私の直感がこの点で対立していることを見出した。
彼の論文で初めにSimonによって与えられた特徴では、衝突を要求しない。
そして、彼の論文で彼が与えたたくさんの例が、指向的な作用者間、
もしくは、与えられた作用者の目的間の衝突を要求していない。
私は、衝突を多くの複雑系の重要な要素として焦点を当てるNelsonに
同意しているが、明確な複雑系の問題が必要条件として衝突を含むこと
について主張することを困難にしている。注目点の次のパラグラフは、
複雑性の多くの違った現代の概念のもとで複雑性を示すが、
衝突のいかなる側面も示さない事例を含む。それをランダム現象をさしている。


3.複雑性と乱雑さ


系列の複雑性についてのここ十数年のたくさんの文献や、
乱雑さの、新しくてより使える概念を与える試みをしている
文献において、驚くべきことに、どの論文のなかにも、
乱雑な現象と複雑系についての関連に関するいかなるコメントも
見出せないのだ。
暗示的に、階層と、その階層によって導入される、単純さに
ついてのSimonの注目点は乱雑さと複雑性を密接に結びつける
事例になっている。
それはちょうど、実際に、最大の乱雑さ、すなわち、最大の複雑性を示す
いかなる階層構造をも持たない系列である。
おそらく、衝突を含むものとして複雑系を特徴付けるNelsonの考え方に反対する
複雑系の最も良い例は、最大の乱雑さを含む系だ。
複雑性や乱雑さについてなされた仕事は、近年、複雑性の問題についての
より深い概念的な攻撃であるという、私自身の見方を提示したい。
この文献の詳細な議論の不在であるということへの驚きを誘発している
この信念がそれである。


4.幾何学的複雑性


私は、Simonの力学の歴史からの事例が気に入っていて、階層について
彼が述べるべきことのほとんどに同意している。
しかし、ケプラーやニュートンがそうされたようなやり方で、今の時代において
我々の大半が、幸運の女神に微笑まれることはないと考える。
もし、圧倒的なものでないなら、幾何学的複雑性、もしくは他のやり方で
空間的配置の複雑性が直感的に本質的に見える中に、たくさんの問題がある。
顕著な現代の事例は、4色推論(four-color conjecture)証明するために取られる
力学の明らかな複雑性である。
幾何学的複雑性の歴史的な事例として、ケプラーとニュートンのSimonの例を
採用しよう。
伝統的に、1685年にニュートンが厳密な形式で一様な質量をもつ球体の
重力相互作用は、その中心に位置する点のそれと同じであることを示すという
難問を解いた。
今では、単純な事例だが、連続性と対象性と、そして、幾何学的複雑性を
すでに考慮して描かれている。
我々は、対象性の単純な原理からより複雑で微妙な配置への移動のように、
そして、系の空間的配置の本性と複雑性を結びつける複雑系についての
直感の重要な部分であるような幾何学的配置についてのより良い直感を持っている。
大きくて困難な幾何学的複雑系の主題を導入することによって、
シンポジウムの領域で、それらの問題が、NelsonとSimonによって、扱われるべきだった
とは私は言ってはいない。
私は単に、複雑性の複数の違った概念を生み出そうとここ見ているに過ぎない。
その概念は、たやすく同定できて、現在利用できる複雑性の一様な理論を持つことから
離れていくということを示唆している。


5.複雑世界の単純なモデル。


NelsonもSimonも、与えられたモデルや現実世界の荒れ狂うカオス自体の中に
打ち立てられた概念の固定された集合の中に反映されているような
世界のモデルの間の区別を作った。
この区別は本質的に、明確な形で描かれるように思える。
私達は、我々は世界の明示的なモデルに対する複雑性の
考え方しか持つことは出来ず、実在それ自身や、それの
より小さな部分についての複雑性の考え方は持つ事は出来ない。
だから、同じ時間空間的領域を占めてるが複雑性が大きく違う世界の
モデルによって二つの違った理論が満たされるということを
認識することは重要なことのように思える。
通常のやり方では、私が言いつづけていることは、複雑性というのは
常に与えられた理論のモデルの特徴であるということだ。
そして、この相対化というのは不可避なことのように思える。


6.理論的複雑性の還元


Simonによって導入された区分や事例において、明示的なやり方では
捉えることが出来ない(おそらくはNelsonのアプローチでは関係のない)
複雑性についての別の意味は、明示的な定義の導入と補助概念を用いて
理論、もしくは理論のモデルの複雑性における還元である。
よく知られている単純な例は、新しい概念の明示的な定義の導入によって
公理的集合論のような数学の系統だった基本的発達における式の複雑性である。
もし集合論が集合の要素についてのただ一つの原始的概念を用いて書かれるなら、
集合論のより進化した公理を含む事は出来ないということは公平であろう。
明示的定義の導入で得られた複雑性の還元を測定するいくつかの手法が存在する。
得られるものはいかなる高度に系統立てられた理論においても実質的なものであるので、
明示的な定義の使用による複雑性の還元は、複雑性の様々な測定の下で、
堅牢で明確であるというのは明らかだ。
単純化の証明は、式の単純化に密接に結びついている。
最も良い例のいくつかは、おそらくは数論において見出される。
証明の複雑性の還元のための明示的な定義の導入は、いくつかの論文で
Kreiselによって強調されている。


7.複雑性概念の多様性


私がすでに述べてはいるが、次のことを強調して終わりにしたい。
複雑性の違った概念に、いくつかの良く知られている類似点があったとしても、
それらは、兄弟ではなく又従兄弟くらいでしかない。
複雑系の概念の種類(generic)についての考えは、独立の概念の種類のそれに
似ているように見える。
ちょうど、私達が独立についてそうするように、複雑性についての強くて剥き出しの
直感的考えをもっている。
我々は独立についての違った考え方を発展させていくにつれ、しかしながら、
それらの間には密接な関係はないということを見出した。
たとえば、論理的独立と状態的独立は違った形式的特徴をもつ。
さらに、複雑性の分析は独立の分析よりさらに悪い状態にある。
独立の概念についていくつかの同意が存在し、実際に、その二つは他方と同様に
ちょうど言及した。たとえば、線形独立の一般概念。
複雑性の理論において比較できる発展はまだない。結果として、
いかなる深みの一般的理論も、まだ見えてきていない。

量子力学における測定の問題

1998年3月 6日 00:00

Bas van Fraassen

ラティが、私に、この会議の測定の議論のサマリーを書かないかと言った時、
もちろん、それらすべてを正当化するやり方はないということには気が付いていた。
測定のパネルディスカッションにおいて、アルバートは
維持できるような量子力学の解釈はたった二種類しかないといった。
その一方に従えば、量子力学は誤りであり、
もう一方に従えば、量子力学はおそらくは真だけれども、不完全である。
この結論に対して、私が望みうることは、せいぜい、
悪い状態に入り込まないようにすることだろう。


まず、与えられたカテゴリーを大きく二つに分け、さらに、
それを二つのサブカテゴリーに分けよう。
はじめ区分は、ユニタリー展開演算子をもつから始めるものと、
それを前提としては置かないという立場に分けることだ。
第一のカテゴリーは、比較的標準的なやり方、
例えば、超選択則を認めたり、
positve operator valued measureであるオブザーバブルを認めたりして、
フォーマリズムを広げていきたいとする考え方である。
第二のカテゴリーはよりラディカルである。


第二のカテゴリーには、私は、第一のものと比べて、あまり馴染みがない。
このカテゴリーで、他の重大な違いが見いだされる。
ヒルベルト空間から始めるという態度に中立的で、
ヒルベルト空間のフォーマリズムが正当化されるなら、
それで完了したと見なしても良いと考える人たちである。
ここでは特に、ペレ教授や、バイッツェッカー教授などを考えている。
彼らは現象論的に述べられるべき一般的な原理を展開しようと試みた。
彼らは、経験や観察の構造のようなものでは、
われわれに認識論的に非常に近いことに関心がある。
そのプログラムは表記公理と呼ばれるものを与える。
In the sixties(舟注:意味不明)
ヤオホやピロン等の量子論理プログラムのような、
この種の大きなスケールのプログラムが存在した。
それは、表記公理がヒルベルト空間や
ユニタリーグループを持ち出すことを妨げない。
実際にペレ教授は少なくとも部分的にはそうであろうという理由を
我々に与えた。


しかし、全く違う立場の人もいる。とくに、
プリマス教授やザオラル教授によって展開された
GRWモデルや代数的量子力学である。
どちらも魅力的な立場である。


ギラルディー教授は、彼のアプローチがどのようにして
相対論と上手くやって行けるかを示し、
GRWモデルが波動関数の収縮の相対論的モデルを
生み出す事が出来るのを示した。
我々が既に見たように、GWRモデルは標準的量子力学のライバルであるが、
その経験上の違いというのは、同じ実験的支持を主張できるほど、
小さな違いでしかない。
この時点では少し保留をしたい
GWRモデルはより標準的な量子力学の修正として産み出された。
私がGRWの世界の中では、普通の問いに普通のやり方で
答えることが出来るという自信はないといわざろうえない。
これは決してっ批評というほどものではない。
ただの意志表示にすぎない。
標準的な量子力学の基礎の細部において解かれたものが沢山ある。
GRWに対する同様な厳密な基礎にたいして、
それを訴えかけよう。
次のようにいうやり方はアンフェアというほどではなかろう。
GRWモデルは、それのハイゼンベルグやそれのシュレディンガーや
それのパウリを持つであろう。
しかし私の知る限りでは、それのフォンノイマンをもってはいない。


代数的量子力学の場合、今のところ、それは量子力学の真のライバルであろう。
しかし、それから話を始めるのは適切ではないと思う。
その数学は、特殊な場合として標準的量子力学を持つ一般化である。
プリマス教授が主張しているように、これは誤った特殊な事例として理解される。
正しい特殊の事例は、ローカルなコンパクト位相空間ではなく、
古典系と非古典系の共存を認めるものである。
展開の方程式は非線形であり、普通の量子力学とは違った状況にある。
そして、この理論は魅惑的である。


しかし、ザオラル教授の論文では、これからなされるべき仕事が
どれくらいたくさんあるかということが述べられていたように思う。
最も基本的な問いに対しては、キァリケイチャーと呼んでいる
単純化された例でしか答えられていない。
まだ氷山の一角を見せられたに過ぎないように思える。


しかし、最も重要な問いをしなければならない。
プリマス教授のレクチャーを聴いたとき、次のように自問自答し続けた。
この理論において測定問題に相当するものは何であろうか?
このレクチャーの後半部分で、その相当するものが、
始めて現れてきたように思う。
それは、エンド物理とエキソ物理についてのことである。
エンド物理は閉じて孤立している系の物理的記述である。
いわば神の目の視点である。
哲学において、「どこからでもない視点」といわれるものだ。
そこで、プリマス教授は、系の内在的オブザーバブルと呼ぶものを
記述するC*-代数フォーマリズムを与えている。
他方、エキソ物理的記述は、世界の残りの部分である観察者からの記述である。
それゆえそれは、開いている系である。
普通の量子力学でも、そういった区別はある。
もちろん、ここでは、ダビーの「オープン系の量子論」
という本を念頭に置いている。
ペレ教授は昨日ダビーに答えるためにこの本に言及していた。


これは、代数的量子力学においていかになされるであろうか?
観察者はある文脈を決定する。
それは、内在的状態の空間の位相(トポロジー)によって
特徴づけられる。
これは、C*-代数モデルの状態の空間の課せられた、
文脈的に選ばれる位相である。


ここまでで、普通の量子力学と代数的量子力学に並行的なものが存在する。
どちらの場合でも、二種類の記述が存在する。
一方の記述は視点的で、文脈的要素で決定される。
他方の記述は非視点的で、非文脈的である。
いま、どちらの場合でも同じ問題が出てくるだろう。
観察者が意識を持つ人間ではなくオートマトンだとしよう。
同じ区別を適応する。
しかし、ここでの文脈的な選択というのは、意志による自由選択ではなく、
このオートマトンを特徴づける物理的要素によって
決定されなければならない。
そこで、オートマトンとそれが測定する系の両方を含む
閉じた系を取りましょう。
そして、そのエンド物理的な記述を議論しましょう。
この記述は、どのようにして、オートマトンの物理的性質が
文脈的選択を固定しているのかを含んでいなければならない。
そうすると、正しいエキソ物理の記述が、
どのようにエンド物理の記述と関係しているのかを
理解することができる。


プリマス教授の用語で問題を提出すると、
次のことを理解できる。
a)普通の量子力学に適用するように、それは、測定問題の外観を持っている。
b)プリマス教授もまたこの問題に直面している。
普通の量子力学のアプローチをする人々と同じように、
彼もまた、必要に応じて変更を加えて、その問題を提出する必要がある。


プリマス教授のレクチャーをはじめまで振り返ってみると、
彼が、完全にこの問題を認識していて、実ははじめに測定問題に言及していて、
その問題を取り除いたり、回避しようとしていたりしていたことに気がついた。
彼がいっていたことは、
物理学の普遍的正当性を仮説的に主張すると、
自己参照を含む自然の記述を考えなければならないようにみえる。
このことは、真理についてのタルスキーの公理によって
いかなる場合でも不可能である。
そうすると、そのような記述を与えようとするなら、
何か不可能なことを試みることになる。
明らかにそれをすることはできない。


これが私の提出した問題を取り除くことはできないと思われる。
普通の量子力学で同じ問題に直面するとき、
タルスキーも公理と対立しているとは思わない。
だれも、自己参照を考慮した真なる理論を求めてはいない。
理論の計画は、その公理によって限界づけられている。
さほど大きなことを問う気はない。
文脈的選択が純粋な物理的要素をもちいて
内部で決定されている閉じた系のエンド物理の導出を
プリマス教授はしなければならないように思われる。


ただ、わたしもC*やW*-代数の勉強をもっとしてみなければならないであろう。
しかしながら、次のことは強調しなければならない。
それらの普通の量子力学のライバルが魅力的でエキサイティングな提案であるが、
しかし、私はそれらについて語ることはできない。


恐らく、第一のカテゴリーについては少しか語ることができるであろう。
そのカテゴリーはさほどラディカルではなく、
普通のヒルベルト空間フォーマリズムを支持し、
それらを保とうとする立場である。
わざわざ、時間を費やしてまで、このポリシーを支持しているのが
多数派であると主張する気はない。
しかし、私はこの立場を取っている。


それらの標準的なアプローチを考察するのに、
それらを再び二種類に分割しましょう。
それらの区分は立場の違いではなく、むしろ仕事の違いである。
著者達の大半は、その両方の仕事にある程度づつかかわっている。


私が考えている二つの仕事とは次のものだ。
a)ある程度まで可能であろう、純粋に量子力学的な測定の記述を与えること。
b)測定の考えが出てくる解釈の問題を提出すること。


まず初めに、標準的な量子力学の測定の理論から始めよう。
私が思うに、この仕事はすべての関係者にとって一番価値のある仕事である。
なぜなら、それは中立的なやり方で、
我々の議論の共通の基盤を描き出すからだ。
この領域において、大きな進歩があった。
その様な進歩の数々が、沢山の論文によってここで報告された。
とくに、ブッシュ、カッシーニ、ミッテルシュテッド、シュレック、イモト、
コバヤシ、グラボイスキー、マツモト、ラティーらによって提出された。
今年になって、主要な研究が報告された。
ひとつは、ベルトラメッティ、カッシーニ、ラティー、によるものであり、
もうひとつは、ブッシュ、ラティー、ミッテルシュテッド、によるものである。
詳しい話しを聞いたけれども、
ここでは、基本的結果の簡単な結論だけを与えましょう。


測定の量子力学的理論に対する問いは、
非常に注意深く述べられなければならない。
「測定」という言葉にはある含蓄がある。
日常言語からその言葉を思い出すと、
その含蓄とは、人間の活動や人間の意図を含んでいる。
しかし、核を成す問題は、純粋に物理的なものである。
測定にたいして用いられるためには、プロセスは
どのようなものでなければならないのか?
いかなる種類の物理的な相互作用が必要とされているのか?
答えるに当たっては、ある条件が与えられ、
その条件が、少なくとも測定の役割をする候補者の
物理的相互作用のクラスを定義する。


第一の条件は、ある確立分布が再生産されるという要請である。
この条件を表現するために、
測定相互作用の通常用いられる描像を使いましょう。
対象系の初期状態をW、器具の初期状態をT、
それぞれの還元された終状態をW'、T'とする。
条件は、
測定されるオブザーバブルAにたいする初期ボルン確率分布
(E→Tr(WIAE))
が、値を示すオブザーバブルBに対する終ボルン確率分布
(E→Tr(T'IBE))
によって再生産されなければならない。
ここでIAEはAの実数集合Eに関する射影である。
簡単にいうと
条件1.Tr(WIAE)=Tr(T'IBE)
この条件にたいする二つの動機付けとなる理由がある。
第一がボルンの規則の形である。
それは非常に多くのことを述べているようにみえる。
しかし、私には、一連の測定(測定の鎖)を許すなら、
それもまた必要であるようにみえる。


多くの今までの結果をたしあわせると、一つの強い結果が出てくる。
それはカッシーニ教授によって提出されたものだ。
結果1.すべての離散的オブザーバブルAに対し、
次の場合にかぎり条件1が満たされる。
そのプロセスが、次のようなユニタリー演算子によって産み出される。
U(ψij*Φ)=Ψij*Φi
ここでψijは固有値aiに対応している固有ベクトルであり、
Ψijは二番目のインデックスに関して直行している単位ベクトルである。
Φiは値を示すオブザーバブルBの固有ベクトルである。


条件1が測定プロセスに関して十分であると考える理由はない。
反対の一つは次のようなものだ。
器具の終状態が、一般には、
値を示すオブザーバブルの固有状態の混合にはならない。
そうすると、ボルン確率を
値を示すオブザーバブルの値の確率と考えることすら出来ない。
そこで、ベルトラメッティ教授の論文に基づいて、
プロセスをより測定らしく見せる第二の条件を書き記しましょう。


条件2.プロセスの終わりでの系と器具の還元された状態は、
測定されるオブザーバブルと値を示すオブザーバブルのそれぞれの
固有状態の混合状態である。


両方の条件を満足するプロセスのクラスについてのすべての問いに答える
結果が出てくる。


結果2.結果1のプロセスに対し、次の場合にのみ条件2が成立する。
そのプロセスが、測定されるオブザーバブルと、
値を示すオブザーバブルとの間に、
フォンノイマン-リューダース測定を特徴付けるタイプの
強い相関をセットアップする。

これらは基本的結果である。
そして、さらに補助的な結果のより豊富な族を持つ。
カッシーニ教授が示したように、
それらの相互作用を分類したり、
構成したりするやり方を我々は知っている。
その抽象的な存在証明は構成的なものによって置き換えられた。
加えて、確率の側面を用いた可能な種類の相互作用の重要な分類を
持っている。
しかし、それらの二つの結果を基本的なものと私は考える。


実際の感心はここにあるのだが、昨日のパネルディスカッションの参加者達は、
この種のことは理想化されすぎていると不平をこぼしていた。
実際の実験室での測定は、
この理想化されたスキームから外れているようにみえる。
しかし、この感心に答える幾つかの仕事があるようにおもえる。
ここでは、はっきりとしていない値について(unsharp)の
測定についてのしごとを考えている。
そのスローガンは次のようなものである。
我々は大雑把(crude)な測定も特徴づけなければならない。
しかし、いかなるオブザーバブルの大雑把な測定も
大雑把なオブザーバブルのはっきりとした測定でなければならない。
ここでより多くのことが必要とされるということには同意するでしょう。


ここで最後の問題に目を向けましょう。
それは、普通のフォーマリズムを使った仕事のこのカテゴリーに関する
解釈に関係するものである。
これは非常に重大な問題と結び付いている。
測定の標準的量子力学的理論を使う人々は、
ある特定の形でこの問題を提出する。
それは、客観化の要請である。
それが何なのかを述べる前に、
過去十年での初期段階で起こったことに言及しましょう。
ベルトラメッティーとカッシーニの本を用いよう。
この本は、私のバイブルというほどではないが、カレワラぐらいではある。


測定の終わりで、重ねあわせを、フォンノイマンが提案したやり方で、
混合状態に変えることが可能であろうか?
もし超選択則を認めるのなら、答えはYesである。
値を示すオブザーバブルが超選択則で区別されるなら、
重ね合わせのような単一のベクトルで書かれる終状態は、
実際は混合状態を表現している。
なぜなら、別々のコヒーレントな部分空間から取られている
要素を持つからである。
これはあるやり方では素晴らしいものだ。
なぜなら、シュレディンガー方程式を維持する一方で、
波束の収縮も持っているということを意味するからである。
しかし、沢山の問題が存在する。
一つはハミルトニアンがオブザーバブルを表現できないであろう
ということである。
これはワンによって指摘された。彼はそれについての解を議論した。
他の問題もある。
超選択則はどこから来るのか?
それらは、測定機器の巨視的性質から出てくると示唆される。
しかし、ある側面が古典的になるために、対象が十分に大きく、
また十分な数の粒子を含んでいるときでも、
これは私のカレワラとは同意できない点である。
どれくらい複雑性が増加したらそのような超選択則を導くのかを
理解できないということを単にいっているのではない。


私の実際の不同意は次のことにある。
そのような仮定を用いて測定問題を解決したとしよう。
その場合に我々は何を得ることができるのか?


物理学は世界において起こっていることについての情報を
与えると仮定されているということを思い出してもらいたい。
物理学者にある経験的情報を与えるかどうかを尋ねたなら、
彼はいつも同じことをするだろう。
測定結果についての確率を計算する。


これは、沢山の測定が存在するなら正しい。
わたしは、かれらにディノザウルスの時代に起こったことを尋ねたいし、
月の外側で起こったことも尋ねたい。
もし、測定が人間の存在と関係なく起こるプロセスなら、
このことはOKだ。
たとえば、大きな石がディノザウルスの頭に落ちてきて、その頭にこぶを作る。
これは、その時代の石の位置の測定と見なすことができるのではないか。


もう少しまじめに考えよう。
測定の基準が純粋に物理的な基準であるなら、
測定の相互作用が、自然においてしばしば
自発的に起こっているということが可能である。
そうするとその場合、測定結果の確率は、
生命のない自然に適応され、それについての沢山の情報を与える。


しかし、ミクロレベルではどうであろうか?
量子力学はそこで起こっていることの経験的情報を与えるであろうか?
同様にあるミクロプロセスが測定としての身分を持っているときに限り、
それについての情報をそれは与える。


私の書いた二つの条件を思い出しましょう。
空間のある孤立した領域で2、3個の粒子しか存在しない
ということは十分可能である。
そして、それらが二つの条件を満足する相互作用を持つことも可能である。
そのばあい、相互作用が測定であるとしたら、
そこに起こっていることについての沢山のことを
量子力学は教えてくれる。


そうすると、私のカレワラとの不同意、
すなわちマクロレベルに集中している測定問題に対する解との不同意が
理解できるでしょう。


1981年から、測定が客観化で終わるという考えに対する
沢山の誤りが存在した。


客観化の誤り。
これに対してミッテルシュテッドとブッシュによって記述された公理を
再獲得しましょう。

a)ミッテルシュテッドによって与えられた客観化の定義:
状態が無知解釈を許すようなBの固有状態の混合である場合に限り、
Bは客観的な値を持つ。
b)客観化の公準:
測定の終わりで、値を示すオブザーバブルは客観的な値を持つ。
c)結果:
Bの固有状態が超選択則によって区別される場合、
Bは器具に関する全てのオブザーバブルと可換である。
すなわち、器具は離散的な古典系である。
それゆえ条件1はもはや満たされない。


注意点。
この状況についてのコメントで終わるという勝手をお許し頂きたい。
この会議での私自身の論文も参照していただきたい。
客観的な値の定義は、フォンノイマンの意味論を含んでいる。
すなわち。値付与と状態付与を同一視することだ。


それまで提案されてきた客観化は、
値付与に対するフォンノイマンの意味論を前提している。
そして実際に、そのような前提を用いて、
客観化のアイディアのある意味は存在できる。


結論。
我々は非常にエキサイティングな時代に生きている。
量子力学において、超選択則を使ったり使わなかったりして、
何がモデル化され、何がモデル化されないのか?
さらには、いかなる種類の選択肢が、
NOGO定理を逃れることができるのか?
我々はこういったことを、沢山学び、沢山のことを知ってきた。
しかし、まだ、非常に基本的な問題に直面し続けている。
ある一匹の神秘なドラゴンを退治しても、
すぐに新しい姿で復活するようなものである。
しかし、その各々の新しい生命体は、
より正確な姿で現れてきて、厳密で形式的手法によって
傷つけることがしやすくなる。
そして私が思うに、
それは、最終的に私がデビットの表明する楽観主義に共鳴する理由である。
私が思うに、このドラゴンは、最後に彼が殺されていなくても、
すでにただ生きながらえているに過ぎないのだ。

証拠上の関連性についての見解

1998年3月 5日 00:00

DAVID CHRISTENSEN

確証についてのグリマーのブートストラップ説明は、仮説演繹主義の
深刻な問題を持っている、証拠上の関連性についての分析を提供する
ようにデザインされている。
しかしながら、「理論と証拠」においてSET OUTされているように、
証拠とは明らかに無関係な事例においても確証を許してしまう。
グリマーの説明が持つ困難は仮説演繹的説明と共有する基本的性質に
したがっているように見える。その性質は、なぜどちらも証拠上の
関連性の十分な説明を与えないのかということを説明するだろう。


序章

クラークグリマーは「理論と証拠」においてヘンペルの考えと
グリマー自身の「ブートストラップ条件」から導出される考えに基づいた
確証の説明を提案した。
ブートストラップ条件は、観察語彙だけを含む文が、より豊富な
理論語彙の中に組みたてられた仮説を確証することを許すように
作られている。
「ブートストラップ戦略」の目的は、テストされた仮説を
典型事例として含む一般理論の一部を使う事によって、
証拠から、テストされた仮説の事例を導出することを許すことだ。
それらのラインに沿ったほかの試みとは違って、グリマーのものは、
意味公準や分析的真のいかなる特殊なクラスにも依存していない。
それは、理論を、整合的で演繹的に閉じた、文の集合として扱っている。
そしてそれらのメンバーは互いに同等である。

グリマーによると、ブートストラップ条件の最も有意義なメリットは、
ほんのわずかの証拠が、どのようにして、等しくなく、理論の違った部分を
確証(もしくは反確証)出来るかということを説明するということだ。
その最も魅力的な選択肢-仮説演繹(H-D)説明-は、科学的推論の
この性質を説明できないように見える。
これが、グリマーの仮説演繹主義に対しての
最も主たる(そして、最もConvincingな)批評だ。
また、科学的実践の他の側面の彼の実証的説明は、証拠上の関連性に
ついての彼の説明に大きく依存している。
ブートストラップ戦略は、我々が「変化する」証拠をこのみ、
「非観察量」を含む理論を嫌うということの、彼の説明を形作り、
分析/総合の二分法に頼ることなく、確証についての
クワイン的全体主義を拒否するやり方をグリマーに与えている。

私は、ブートストラップ戦略がグリマーが欲したような証拠上の関連性の
説明を与えないということを論じる。そして、その種のいかなるものも
機能しないということに証明を与えることはしないが、一方で、
ある理由で、悲観主義的な論旨を提示する。


I

グリマーのブートストラップ条件の文や、それに含まれている専門用語は
ここでは関係ない問題を解決するために作られた様々な条件によって
複雑にされている。
そうした理由で、条件の大雑把な文だけを与えよう。
使われている中心概念は、量の値の計算の考え方だ。
量は開の原子式で、量の値は原子文、もしくはその否定だ
(もし、ひとつかそれ以上の定義された記述が個々の定数で
置き換えられるなら、原子的である文と経験的に等価な文でもある)。
だから、'P(a)','~P(B)','P(ixG(x))'などは、すべて、量'P(x)'の
値である。
量の計算は次のようなグラフによって表現される。

 P(x)
↑  ↑   ⇔ ∀x[(R(x)∧S(x))⊃P(x)]
R(x) S(x)

R(x)とS(x)のある値を仮定すると、横で示された文(この計算において
「使われた」仮説)が、P(x)の値を生み出す。
計算は、たくさんの枝分かれや、二つ以上の階層を持つこともある。
それらが二つ以上の階層を持つときは、最上位と最下位だけが量に
限定される。
他の階層は非原子的開の式を含んでもよい。

グリマーのブートストラップ条件は証拠の言明Eが理論Tと相対的に
仮説Hをいつ確証するのかということの説明を与える。
大雑把に次の四つを要求する。
(i) E∧HはTと整合的である。

(ii) Eは、Tからだけ仮説を使う計算の集合Cと一緒に、
 Hにおいて予測される全ての出来事を含む量の集合に対する
 値を決定する。

(iii) 値のこの集合は(Eと共に)ヘンペルの十分条件の拡張されたものに
 そって、Hを確証する。

(iv) Eに現れた語彙だけを含む文E'が存在する。Cの中の計算は
 E'から、拡張された十分条件に沿って~Hを確証するであろう
 値の集合を生み出す。

最後の条件は、使われている計算がEとは無関係なHのヘンペル確証を
保証してしまうことを防ぐためである。
E'は、C(可能ならばHそれ自身を除いて)の中で使われる全ての
仮説の連言と両立可能であることと、その量のいかなる不可能値も
含まないことを要求されている。
(その値は、自然法則を仮定したとき、同時に可能である必要はない。
実際しばしばそうではありれないだろう。可能性についての常識的な意味で、
Eを得るときに使われる器具や手続きを考慮して、それらの値は独立に
可能でなければならない。)

証拠との関連性の要求は、Hにおける予測の全てがEから計算可能な
量の範囲で起こる条件によって、本質的には、与えられることになっている。
事例としての確証の理論を持ち出すとすると、次のようなものが考えられるだろう。
E:R(a)∧B(a)
は
H1:∀x[R(x)⊃B(x)]
を確証するべきである。
しかし、もし、ある理論TがH1の連言と等価で、
H2:∀xG(x)
なら、EにH2の確証をさせたくはないだろう。
(H1をかの有名な「カラスの仮説」として、H2を汎神論の仮説としてみよう)
計算可能性の要求がこの結果をもたらすであろうことはもっともらしく見えるだろう。

グリマーの説明では、EはTに相対的にH1を確証するが、H2も確証する。
次の計算を考えてみよう。

  G(x)
  ↑ ↑   ⇔∀x[(R(x)⊃B(x))≡G(x)]
R(x) B(x)

Eは、この計算から、H2の事例である'G(a)'を生み出す。
その計算で使われている仮説は、H1でもH2でもないが、
それらの帰結である。ゆえに、それはTの中にある。最後に、

E':R(a)∧~B(a)

は使われている仮説と整合している。そして、~H2の事例である
'~G(a)'を生み出すだろう。

その例が付加した仮説の特定の単純さに依存しないということは
さほど意味はない。
Tが'∀x[R(x)⊃B(x)]∧∀x[S(x)⊃C(x)]'と等価であるとしよう。
H1とH2の連言を各々持ってきて、計算の次の集合を考えてみよう。

  S(x)  ___C(x)___
        ↑   ↑   ↑   ⇔∀x[(R(x)⊃B(x))≡(S(x)⊃C(x))]
       R(x) B(x) S(x)

E='R(a)∧B(a)∧S(a)'はH2を確証しE'='R(a)∧~B(a)∧S(a)'は
~H2を確証し、EもE'も使われている仮説と矛盾しない。
グリマーの主張に基づけは、EはH1だけを確証すべきである。

証拠上の関連性についてのグリマーのメインの事例はケプラーの法則を含むものだ。
それらの法則のはじめの二つは、任意の惑星が太陽の周りをどのように
回らなければならないかということの記述である。
惑星のケプラーの軌道は、惑星についての三つの良く選ばれた観察によって
決定された。
そして四番目の観察は、はじめの二つの法則をテストするのにもちいられた。

しかしながら、第3法則は任意の惑星のあるパラメータ間の比率が一定であると
のべているが、それが何であるかを一切記述していない。
だから、惑星を観察することによって、任意の惑星のその比率を計算する一方で、
少なくとも二つの惑星に対して、第3法則をテストするために、このことを
行わなければならないように思える。グリマーは次のように書いている。

ケプラーの第3法則をテストするためには、少なくとも二つの惑星の
周期と太陽からの平均距離を見積もることが必要だ。
しかし、たった一つだけの惑星の観察からでは、ケプラーの法則と
その帰結を用いて、任意のほかの惑星の軌道のパラメーターを計算することは
出来ない。
もちろん我々はそういった環境のもと、それが何であれ、任意の惑星の
周期2乗と平均距離の3乗の比率を計算することができる。
しかし、そのときは、ケプラーの第3法則それだけを使ってである。
そうすると、一つの量として、そのような比率を認めたとしても、
必要な計算に対してケプラーの法則を代表させればトリビリアルな一致を
見るだけである。それゆえ、第3法則はテストされえないのである。
(グリマー1980)

ここで詳細を解くことなく、上で指摘された型の問題が、グリマーが説明したい
証拠上の関連性の例にどのように影響を与えているであろうかを
形式的に指摘することができる。
その問題は、比率を一つの量'k(x)'として扱うと明らかである。
第3法則は、単純に、任意の二つの惑星xとyに対して、
'k(x)=k(y)'であると述べているだけである。
グリマーが指摘したように、計算の確証する集合は、実証と反証の両方を
述べることが出来なければならない。
しかし事例は第3法則を用いて計算される必要がない。
それは、たとえば次のような理論の帰結である。

(C1)
もし惑星aが(観察の与えられた集合において)ケプラーのはじめの
二つの法則にしたがっているのなら、惑星bのk値は惑星aのk値と
同じである。

次も、理論の帰結である

(C2)
もし惑星aが(観察の与えられた集合において)ケプラーのはじめの
二つの法則にしたがっていないのなら、惑星bのK値は惑星aのK値の
2倍である。

(C2は、単純にそれの前件の否定なので、理論の帰結といえるでしょう)

今、惑星aのk値がそれの観察だけから得ることができる。
そして、惑星aの観察はC1とC2の前件の真理値も決定することができる。
だから、C1とC2の連言は、観察された惑星がはじめの二つの法則に対して
正しく振舞うかどうかにだけ依存して、第3法則の実証、反証事例を与える
計算の集合において使用される。
単一の惑星の観察によって、第3法則のテストを完了するでしょう。

この点で、'k(x)'を単一の量としては取り扱わないと主張できるだろう。
結局'T(x)^2/d(x)^3'の省略形に過ぎないとみなされるだろう。
おそらく、テストが二つの惑星のパラメータTとdの値を決定することが
要求されるべきである。
このことは、前ほど単純ではない。
なぜなら、観察された惑星が正しく振る舞い、Tとdの値を知ったとしても
理論は観察されていないいかなる惑星のTとdの値を教えてはくれない。
その比率しか分からないのだ。
だから、前のように実証事例を得るためにC1を使うことは出来ない。

私が思うに、まだ、直感的に不十分な証拠から第3法則を確証する
計算が存在する。
惑星aをdとTの両方を得るのに充分なだけ観察を行ったとしよう。
惑星bをそれらの値のうち一方を得るのに充分なだけ観察したともしよう。
上記のように惑星bのkを計算できるから、そのとき、
惑星bの残りの値を計算するために、既に得ている惑星bの一方の値を
使うことができる。
しかし、第3法則を確証するのに十分といえるほど惑星bについて知ってはいない
ことは明らかである。
このことは、確証や非確証が惑星の観察された値とはまったく独立である
という認識によって持ち出される。

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