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自治とか政治とか

公開討論は柔らかい感じにカスタマイズしてぜひ安城で

2012年5月11日 09:16

武雄市の樋渡市長と産総研の高木さんの議論が、樋渡市長の公開討論会の提案あたりからなにやらあさっての方向になってきていて、個人的には非常に残念であります。

地域、地方の図書館のあり方については僕自身、別で書いたように図書館好きで想いもありますし、また、指定管理者制度という観点で見ても、私自身が現在、指定管理者制度で運用されている安城市民交流センターと併設する安城市民活動センターのセンター長でありますので、話題としては関心度最大級だったのであります。

特に、樋渡市長の考えで指定管理制度で地域を良くしていくという観点で指定管理を選択し、CCCにいたったわけでありましょうし、変な話、CCCじゃなくたって、現時点の多くの図書館システムは貸し出し履歴はデジタル化されて保管されているし、当然、民間指定管理者に望むのは、その個人情報の保護とそのデータを最大限に活用したサービスレベルの向上であるべきだというのは、まさにその通りだと思います。
今回、たまたま、全国津々浦々の皆さんが知っているTポイントカードだから大騒ぎになったけど、図書館に限らずどんな指定管理だって、個人情報をデジタル化し、そのデジタル化した個人情報や貸し出し履歴のような付帯情報の利活用ってのは否が応でも求められるものです。
当センターだって貸館業務をやっているから貸し出し履歴はありますし、お客様から常連割引制度作れっていわれたこともあります。そんなの貸し出し履歴の利活用そのものなわけで。思想信条が分かることを伴う図書とは違うというお声もあるかもしれませんが、貸したお部屋の利用目的は必ず聞いてますから、何をやっているかを含めてDB化しているので、それはそれで思想信条がある面で丸分かりなわけです。

他方で、僕個人は高木さんのBLOGのエントリには技術研究者としての良心を感じます(タイトルに品がないとかは置いといて。そもそも俺が品の有無を語る資格ないし)。自分も元SEですし、今でもシステムをちょこちょこ構築したりもします。だからこそ、LibraHack事件のときも、正直、煽るんじゃなくてすばらしい論点整理だと感じましたし、今回の一件も、僕が見る限りではそんな喧嘩を吹っかけているようには全く見えないわけで。
ただ、セキュリティ研究者としてそこに穴がある可能性を感じるので質問をされ、回答を精査し見解を載せただけという風に受け止めています。
正直、自分たちのセンターの個人情報の保護をするために、紙を取り除いて完全IT化を進めています。紙だと、個人情報やそれをを類推できる情報(田舎だとほんのちょっとのヒントで本人に到達できちゃう)を、第三者に意外と見れちゃう状況になりがちなんですよね。図書でも、僕らが小学生のころって、図書カードで借りようとすると、前借りた人が基本的にみんな分かっちゃったりしましたよね。考えてみたら、このころと比べたらTポイントカードだって圧倒的に個人情報は保護されているわけで。
たまたま、自分がITコンサルタントでSEだから、うちのセンターはスタッフと協力してこういう改革がガリガリできるけど、そんなことができるのは稀有なんだと思います。

いわば、こういう問題は本来、日本の田舎における指定管理者制度の宿命でもあるわけです。その現状を踏まえたときに、研究者然とそれだけ投げられてもつらいよって言う樋渡市長の気持ちは分かるような気もします。と同時に、研究者の良心として、その先は踏み出して発言してはいけないという高木さんの気持ちも分かるような気もします。これを抉り出したという点で、樋渡市長、CCC、高木さんの議論はものすごく有価値なわけですし、指定管理の職員を長らくやってきた人間としてもものすごく関心があるわけです。

で、ご提案ですが、高木様、樋渡市長様、うちのセンターで「民間運営の公設図書館を考えるシンポジュウム」でもやりませんか?公開討論って形だと煽る方も多数いらっしゃるようですし。あくまでそれぞれの立場でお話できることだけお話して頂く。僕は指定管理者の末端の端くれとして、お二人のディスカッションから学べるものは山ほどあると信じています。
ちょうど私たちの住む安城市は新しい図書館施設の設置検討中ですし、隣市はかの有名なLibraのある市ですし、地域住民の関心度も高いと思われます。あ、でも、しがない貧乏NPOの指定管理なんで、お金ないんですよね。当然僕個人も貧乏です。CCCさん、お二人の謝金と交通費もって差し上げてくれないかなぁ。
ディスカッションが終わったあとは、武雄市と違って安城は温泉はありませんが、芸妓文化はありますんで、お座敷を楽しんでいただくって事で。




訂正:よく調べると勇み足の表現がありました。
---
現時点の多くの図書館システムは貸し出し履歴はデジタル化されて保管されているし
---
と書いたのですが、
「貸し出し履歴はデジタル化されて保管可能な状態になっているし」
が正しい表現で、多くの図書館が一時保存だけして、原則としては消すように処理しているようです。

非同期な社会が作る、本当の情報弱者

2012年1月 7日 14:45

以前に同じような主旨のことは書いているのですが、改めて書こうと思います。なぜそう思ったかと言うと、自分がアイリンクでの仕事以外で、自宅のある愛知県安城市で市民活動センターのセンター長になって、色々なセンターの改革をしているから。で、その改革を進める一つの理由であるからです。

元気で会社と自宅の往復で、地域のショッピングモールや娯楽施設を利用するだけの生活をしている人が、何でも金で解決できるうちはICTツールを使いこなして、金銭的メリットを享受して一見すると、情報強者にみえます。
しかし、お金で流通しない地域のつながりが必要になったとたん、彼らはその真の意味での地域情報を一切取得できません。なぜなら、そういう情報は、地域の人々の今までのリズムで流れています。紙や対面でのみ事実上は流通しているからです。市民活動情報などはその典型です。こうしたつながりが生み出す生活力のサポートを受けようと思うと、その情報ネットワークにアクセスする必要があります。

ところが、一見すると情報強者である社会の中堅で金を持っていて情報ツールを使いこなせる人々は、朝から晩まで働いていて、休日もまばらで、その情報ネットワークにアクセスする対面という手法にあわせることはほとんど不可能です。また、紙を入手するにも、その紙が置いてある多くの公共施設の営業時間にアクセスすることも不可能です。
この非常に狭い時間と場所の同期を必要とする、非常にアクセシビリティの低いネットワークの中に、真の地域情報はころがっているのが現状です。

別に今までの人との間で、その対面と紙の活動をやめろという気はありません。ただ、自分たちが社会の変化をよく理解して、「場所と時間を同期させることがトコトン困難な社会」での、つながりの手法を考えて欲しいのです。特に、真の地域情報を持っている人々にこそ、新しい担い手が来ないと愚痴っている市民活動をされる方にこそ考えて欲しいのです。時間と場所を同期させないで、情報を収集したり発信したり交流したりするのに、ICT以外の選択肢はほとんどない現実とは向き合わなければなりません。

「場所と時間を同期させることがトコトン困難な社会」を誰が生み出してなぜこんなに大きくなったのか。それをどう解決させるのか。それも重要ですが、それと同時に、この同期できない状況下で、まずはつながって潜在的情報弱者を救済して行かないと、彼らが所得を生みださなくなったときに、一気に地域社会へ負荷が来てしまいます。それを避けるために、いま、市民活動を支援する立場として何が出来るのか、ICTを生業としている事業者として何が出来るのか、ICTと社会を研究している研究者として何が出来るのかの三つを見据えてやれることを一つづつ実施していこうと思います。

何もないまちなんか絶対無い

2010年10月31日 14:34

という実感を味あわせていただく素敵なツアーでした。「赤平を100倍楽しむツアー」です。
最近でこそ、北海道の宇宙開発の拠点である植松電機(カムイスペースワークス)が立地していることで知られてきましたが、夕張並みの財政赤字のまちで、炭鉱亡き後、住んでいる人は「なんもないっしょ」ってあきらめがちな空気でした。
で、一丁やってみるかと、地元JCを中心に実施した手作りツアー。どうしてどうして。見るもの体験するものたくさんあるじゃないですか。実施した本人たちが驚いていたのもびっくりではありましたが。

ランの栽培で大きなシェアを持つ、赤平オーキッドに始まり、フローリングシェア日本一の空知単板、高級かばんの板垣に、日本発世界標準のコロ付旅行カバンを生み出したエースラゲージ赤平工場、いわずと知れたロケット開発を手がける植松電機、あ、あとその昔を支えた赤平の炭鉱の立坑跡の見学も。午前中の産業観光だけで消化不良になるほど盛り沢山。
昼は、エルム高原で「たいまつパン」つくり体験に、即席燻製と地元のワインラムで作ったラムシチューと贅沢三昧。その後は、空知単板さんの端材を活用したマイ箸作り。
さらには、山の守り神の赤平神社で赤いダイヤ絵馬に願いを書いて、石炭をもらって、宮司がちゃんとお払いをしてくれ、おまけに、神社の御神酒がこのご時世を反映してお酒じゃなくて、オリジナルのジンジャーエール。
最後のお土産は、赤平名物の火祭りの赤ふんリレーになぞらえて、赤ふんでした。

僕も含めてですが、市外から、下は保育園年長ぐらいから上は愛知からの移民の70ぐらいのおじいさんおばあさんまでみんな満遍なく楽しめるツアーでした。
視点の切り替えと、もてなしの心がちゃんとあれば「なんもないまち」なんてこの世にないなと実感できる一日でした。

ゆとり教育は本当に悪だったのか

2010年4月 9日 10:43

一応、自民党政権下においても、ゆとり教育は失敗だったということで、教育システムを再度改革することになって、いまでも、それに関わる学力低下問題をあげつらうメディアも多い。挙句に、週休二日はゆとり教育の導入での一環だとか、なんでも気に入らないものは、ろくに調べもせずに、ゆとり教育のせいにした報道までまかり通っている。

そんなにいわれるほど、ゆとり教育はダメだったのか、と思う。
実は、ゆとり教育は私が思うに、日本において制度的には最も優れた政策だった、と思っている。確かに実施において、問題点が無かったとはいわないけれど、ゆとり教育を捨てた先に日本の未来は無いんじゃないかと思うぐらいだ。

ゆとり教育を導入された文脈を一度、日本人はみんなで再考すべきだ。私の記憶する限りで行けば、受験戦争の行き過ぎで、受験中心で実社会でまったく役に立たない知識詰め込みが学校社会であまりにも横行し、それが過剰に偏重され、家庭や地域の中でもそれだけが人間の評価基準といわんばかりの教育になってしまったことが大きかったはずだ。そういう人間は、産業でも研究でも独創性が薄く、先進国の新しい産業構造化では戦力にならないという要求があって導入されたものだ。また、地域社会や家庭中での人のつながりも薄くなり、いじめや非行の行き過ぎがあって、家庭・地域のふれあいや、実社会への接点を持ちながら必要な教育をして行こうということが目論見だったものが、ゆとり教育といわれるものだったはずだ。

ちなみに、今のいじめや非行が酷いというが、実は、犯罪統計的に見れば、件数も内容も1980年代のほうが圧倒的に恐ろしい状態であった。大体、爆弾で担任を車ごとを吹っ飛ばしても報道されなかったぐらい、こんなのは日常茶飯事だったわけだ。
当然、産業力においても、暗記や調べ物や書類整理に優れている人間が沢山いても、独創性のある市場開発や製品開発を担える人材が少なく、途方にくれていたわけだ。それの最たるものがバブル時代の各企業の採用スタンスだ。一定割合で成績じゃなくて変な奴を採用しようなんて風潮があったぐらいだ。
もっというと、テストの点数が取れなくても、多角的な基準で人間を見て育成しようということで導入されたはずのものである。多様な個性を伸ばす教育を、学校・地域・家庭・企業でスクラムを組んでやりましょうって話だったはず。

ところが、いざ導入されしばらくたつと、「学力テストの点数が低下した」とマスコミが騒ぎ出した。僕はこの報道をはじめて聞いたとき、馬鹿じゃないかと思った。ゆとり教育はテストの点数を延ばすための教育ではなく、違う価値観で人間を育成するスキームなのだ。点数なんか下がって当たり前だ。
で、驚いたことに、この時点で地域も家庭もみんなで「学力低下は問題だ」と大合唱を始めてしまったのだ。過剰な点数競争状態が問題で、ゆとり教育を導入したのに、「点数=学力」という発想から抜け出せずに、点数が下がっただけで騒ぎ出してしまった。
で、まず槍玉にあがるのは「円周率を3.14ではなく3で教える」というやつ。所詮、3でも、3.14でも近似に過ぎない。どっちだって、所詮はうそんこの数字だ。有効桁数の問題でしかない。10以上で有効桁数が1桁であれば、3で十分なのだ。3.14が正しいなんて数学書どこにも書いていないし、それと学力の相関なんて有り得ない。
インド式の九九が優れているだのなんだのいうが、普通の九九で日本はキャッチアップ型の産業では十分世界をリードしてきたのだ。そんなのは、目先のテストでいい点数を取る技法以外の価値は無い。いわば、ゆとり教育導入時点で否定されたものだ。せいぜい、後進国が先進国に速く追いつくのに役に立つ程度のものだ。

点数が役に立つのなんて、受験や資格試験でいい点を取れる時程度のものだ。
むしろ、ゆとり教育が志向した、地域や家庭のふれあいや、総合的に考える力を実生活の素材を通じて学ばせるほうが、明らかに多くの場面で役に立つ。そんなことも分からないのか、といいたい。
ゆとり教育問題の主犯は、実は家庭と地域だと思う。二言目には学校の勉強は机上の空論で役に立たないといいながら、実際に机上の空論から脱却するために協力ください、と学校側が手を差し伸べて活動を始めたら、突然、今まで役に立たないとなじった、点数が下がったと家庭と地域からバッシングされてしまったわけだ。
この件では、マスコミも馬鹿ではあるが、家庭と地域の責任は大だ。本当の知識社会を見据えることが出来ないで、いつまでも、「知識=覚えること=勉強=点数=他者と比較」と思い込んでいる馬鹿さ加減。知識は生み出すものであって覚えるものではない。生み出すプロセスが科学であり真の学問であって、それを使いこなせることが学力なのだ。生み出さねばならぬ課題が多様である以上、他者との比較はある面で不可能なのだ。

別に、ゆとり教育でなくても良いので、まともな教育システムをいち早く日本ももたないと、未来がかなり危ない。いい加減、学力点数主義の蒙から日本人は目を覚まさなければいけない。

公益者に広報なんているのか?

2010年4月 7日 12:32

サイエンスポータルのニュースで【 2010年4月2日 最先端研究予算の5億円は科学コミュニケーションに 】というのを読んで、思わずTwitterでつぶやいていたのだが、こんなことの説明責任を果たすために、5億円もつかうんかいな、とか思ったわけです。あ、色々コラムで書いていますが、基本的に科学は大事だと思っていますし、そこにどんだけ予算がついても、余り文句を言う気は無いのですが、こういう広報やIRに公益事業者がコストをかさませるというのはどうかと思うわけです。
当然、本件で行けば、公金で研究をする科学者コミュニティが納税者に対しての説明責任があるのでその説明をがんばる義務はあるのですけど、金がかかる類のことではないように思います。ただ、説明を受ける僕ら納税者の方も問題があるよなとか思うわけです。
条例なり何なりの審議会でもなんでも、出ると必ず出る意見は「広報をしっかりやりましょう。分かりやすい見世物(パンフだったりCMだったり)を作って、みんなが見る媒体(広報誌以外の種種のメディア)で流布すべきです」というものだ。ぼくは、この意見には大反対だったりする。そんなものにコストをかけるのなら、しっかりやることに金をかけてくれと思う。
広告代理店にどれだけ金を払うんだという話だ。見世物制作費に媒体費なんて考えるだけでもゾッとする。たぶん、そんなわがままを満たす費用なんか全部払ったら、政策コストの大半を広報費が占めることになる。ばかげていることこの上ない。

というのも、そもそも、僕らが公民である以上、公のお金の流れや、条例等が決まる仕掛けやそれを実施する仕掛けの最低限の物事は知っているべきだし、どこに行けばどの情報が手に入るかは、労を惜しんではいけないと思う。「俺のわかるように内容を咀嚼して俺の目の前で俺が聞きたいときに常に説明しろ」なんて態度は公民として恥ずべき姿だ。というか、そういう内容を理解して、そういう内容を入手する流れを理解するために、中学校の公民という単元があるんだろうし、科学の価値についても中学校までの理科教育があるはずだ。
教える側も、そういう事をしっかり意識して教えるべきだ、という問題もある。でも、これも教育を受ける側の責任もゼロではない。入試の点数のための暗記物にしている馬鹿な業者やそれに踊らされている人々が沢山いる。
本来、義務教育というのは、しっかりとした公民を作るためのプロセスのはずだ。今のままでは、ものを考えない奴隷の量産とかわらない。分かるように咀嚼された情報は咀嚼者の意図のものに変貌するし、正しい公益に関する情報の入手経路を知らなければ説明者が寸断した時点で、無知蒙昧な状態になることは確実だ。

確かに、自治体によっては経済活動支援の観点から商品宣伝や産業宣伝を行っているものもある。ただしこれであれば、ちゃんと費用対効果を、一般の商業と同じように見ればよい。それに関しては、普通にそのつど特別会計を組めば良いだけだ。政策一般の論点ではない。
公益の担い手は広報にコストをかけるべきではない。最低限、見ようと思えばすべてが見えるWeb上での透明化の徹底でいいはずだ。大切なのは公益に担い手が広報を一生懸命やることではない。透明化が不十分であればそれはそのつど戦うべき話だ。
公益提供者に対して広報が大事だなんていう、愚かしい事を言うのは誰が言い始めたんだ。言い始めた君は奴隷か、と思えて正直あきれてものも言えない。

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