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雑多な話題

まぢめに売ろうぜ(苦笑)

2009年7月26日 19:48

タイトル通り。

僕がお手伝いしているNPO法人がこんなものを売り始めまして。

ぼらせん茶(ボランティアセンターと煎茶を引っ掛けたネーミング)

「ボランティアセンターで販売しているお茶だから、ぼらせん茶。」って、その論理で行ったらネットで売ったら「ぼらせん茶」じゃないでしょうが(^^;

まぁ、ボランティアセンター(市民活動センター等含む)では、確かに、会議や相談時にお茶の消費は馬鹿になりませんし、ペットボトルのお茶ばかりってのも味気が無いものですんで、こういったお茶を利用しつつ、加えてお客様に買ってもらって収益の足しにしていくって発想はよろしいかと思います。
それにしても、なんとも売れなさそうなサイトでござんす。僕が関わっててこれでいいのかという声も聞こえてきそうですが、まぁ、人的成長こそがNPOの醍醐味で、人的成長に必要なのは試練でございますので、手は貸さないのでした(笑)
ちなみに、良く似た駄洒落で第二段商品も企画中とか。がんばるNPO法人じゃねぇ。

趣味の活動は本当に公益性がないのか

2009年7月25日 12:38

タイトルが適切かどうか、いまいち自信がないのだが思いついたことがあるので書く。

基本的に、自分はいい年をした大人が自分の娯楽を優先するという精神が理解できない。誰かのためにしなければいけないことが目の前にあるのに、それを無視して、パチンコに走ったり、テレビを見ほうけたりしている大人を見ると、むちゃくちゃ腹が立ってくる。それは、別に自分が倫理的に特別高尚だからだとは思わない。普通に酔いつぶれるし、ヒトには言えないような数々の失敗を犯してきているし。それであっても、そういう、自己の娯楽最優先というスタンスの大人を見るとふざけるなとか思う。

で、まぁ、自己の娯楽というものを一般に趣味というカタチで言い換えられたりする。基本的に、今の僕としては無趣味で、仕事と子守りが趣味とでもいうしかないような生活かもしれない。でも、仕事も子守りも自分個人の楽しみを志向した娯楽ではないし、趣味とは言いがたいように思う。まぁ、人間たまの息抜きは必要なんだから、多少、自己の娯楽を持っていること自体を否定しようとは思わない。ただ、それが最優先で、他者のためという視点が完全欠如している大人がなんというか許しがたいと思うわけだ。

市民活動と称する色々なサークル活動を支援する施設の相談員をやっているわけだが、「純粋な趣味のサークルは支援対象からはずそうね。公益性が無いから」ということになっている。個人的には、そういう意識を持っているので、それ自体何の違和感もなかったのだけれど、友人のBLOGのエントリーを見て果たして、ことはそんなに単純なのかと思えてきた。
というのも、自分はそういう子供時代を送って、そうやってのめり込んで来たことで、今の力の基礎がついていることは疑う余地がないように思うからだ。

趣味で息抜き(カムイスペースワークスブログ
http://myhome.cururu.jp/camuispaceworks/blog/article/81002753420

日常の通常業務の中では、なかなか挑戦するのは難しいです。
だから、趣味が大事です。
趣味は自分の時間だから好きに使えます。
興味を感じたら、本を買ってしまいます。
本をよんでしまいます。
何か作り始めたら、手先が器用になるし、頭もきっと良くなります。

(中略)

たいていの場合、趣味は人を救います。
それで得られた人脈や、能力が有効だから、やがてうまくいくのです。

お金を出してしてもらうだけのサービスを趣味だと思いこんでいる場合は、
その趣味はあまり役には立たないかもしれません。
でも、自分でよりよくを追究する趣味は、かならず役に立ちます。

ここでの話題はプラモデルだが、僕自身はプラモデルも没頭したが、実はプラモの趣味はそれほど役に立っているとは思わない。でも、僕としてはもっと没頭したのは、PCでゲームを作ることと遊ぶことだった。所詮ゲームされどゲーム。遊びごとのためではあるが、徹底的にノイマン型PCを理解し、各種の機械のBIOSやAPIを把握しないとより面白いゲームは作れない。当然、一般的な論理やプロセスを分解する作業など、結構能力を使う。
おかげさまで、ITの仕事を今やっていますが、たぶん下手なSEさんよりシステムをきちんと理解できている自信はある。でも、いまどきの専門用語は知らない。その頃の人脈だけではなく、それ以降の派生的人脈も含めると、非常に今でも役に立っている。

とすると、一見娯楽であっても、やはり没頭する趣味を持つことはだめではないということになる。子供のうちにそういう意味合いでの娯楽は済ましておけという、言い分も成り立つかもしれないが、大人になってから進歩するなということでもないし、子供の頃そういう趣味をもてなかった大人に無能のままでいろというのも変な話だ。
すると、大人であっても娯楽に没頭すべきだという話になるような気もする。でも、変な話、言われてみると、こういう風に没頭している様を横目に見ても、それほど腹は立たない。さすがに、隣に困っている人がいれば中断して助けてやれやとは思いますけど。
そう考えると、理屈の上でも、僕自身感情の上でも趣味のサークルも広い意味で十分な公益性があるともいえる。変な話、飲み会だってお祭りだってお茶会だって、人と人のつながりを作るという性質を考えれば、娯楽ではあるが、十分、公益性があるともいえる。

でも、パチンコをやりほうけることばかり優先する大人とか、周りでどんなに困っている人間がいても、ボケーっとテレビだけ見ている大人をみて、沸き起こるあの腹立たしさはなんだろうと思う。きっと、自己の向上も無く、他者とつながることも無く、ただ快楽に身をゆだねているだけで、何も生み出さないという、状況を大人が率先している様が許せないのだと思う。社会性の生き物であるべき人間が、社会性に明らかに背を向けているその状況が腹立たしいんだろうなと。

こどもに携帯の持込を禁じるより、大人に撮影機器の持込を禁じないと駄目じゃねぇのか

2009年7月20日 15:00

なんだか長いタイトルになってしまった。
タイトルにあるようなことを言うんだから、あんたは、学校やらイベントの場に撮影機器を持ちこまねぇんだろうなとか言われると、気の小さな小市民なので、周りの人々並みに持ち込んで撮影してしまう人だったりする。今日も、そうやって撮影してきた。
そんな小市民の自分であっても、あの、各種子供のイベントでの無軌道な親と言う名の素人撮影集団ってのはどうかと思う。我が子の活躍を撮るために、他人への配慮を投げ打って撮影している様は、教育上最悪の姿を子供に見せているのではないかとしか思えないんだな。まさに、学校で色々言われているかも知れんけど、「現実の世の中では、自己の利益のために他人への配慮など投げ打つべきだ」ということを、身をもって示しているわけだ。子供は素直にそう見ていると思う。

しかも、日に日に、こういうのが普通だよって風潮に拍車をかけているのが、撮影機器のCM。そうやって子供の成長を記録するのが親の義務だといわんばかりに、おあったCMになっている。こんなのが普通に流れていて、真っ先に大人が洗脳されているということかと思う。子供のメディアリテラシー問題より、大人のメディアリテラシー問題を考えてもらいたいもんだとも思う。ちょっと前までは、こう言う撮影機器の個人利用は旅行での思い出の1シーンってのを売りにしていたはず。それじゃ売れなくなったから、次はこども撮影ってことかいなとかうがった見方をしてしまう。

もっとも、僕自身は撮影機器が個人に広まること自体は、悪いことではないと思う。パブリックアクセスに関しては推奨派なので、こんな小文も書いているぐらいなので、むしろ広まって欲しいとは思う。それにしても、映像マナーのいろはは押さえるべきだし、そういう映像マナーのいろはを教えずして売りまくる、いまのAV機器のメーカーのありようはどうかと思う。
売るならば、「他人にカメラを向けるときには撮る前に許可を得て」「仮に本人や親類が出ていても、活動を撮るときは活動を妨げない」ぐらいのマナーはちゃんと明記すべきだ。売るだけ売ってそういう弊害が増え続けるのは困りもん。

いっそのこと、子供の携帯のように、大人の撮影機器の持込を法で禁じてくれんかとか思う。子供の携帯も法で禁止すると言う議論になって、それまで安直に無根拠な「防犯に役立つ」という宣伝を垂れ流しにして、こども等に売りつけをしていた業界各社がぴたっと、そういう売り方をやめたんだよな。
それを思うと、実効性のある法になるかどうかは別にして、一度そういう法令を真剣に論じて欲しいところだ。

ちなみに、元TVディレクターとしては、親による撮影を完全に禁止にしてプロに発注してきちんとフル撮影フル編集して、それを配布するようにしたほうがいいと思う。そもそも、映像を撮っている人間はファインダー越しでその場の空気という本当に大事なものを一切見ることができないで終わる。それは後に映像が残っていても、その本人は二度とその空気は味わえないからその映像を見ても何も感動はない。感動があるように空気を感じながら撮れば、ほぼ100%写し損じる。その写し損じで起きる家庭内いざこざによる気分の滅入り度とか考えると、自分たちで撮らない方が圧倒的に幸せだと思う。

なんか、世間の親御さんとAV機器メーカの大半を敵にまわしちゃいそうな文章だな。こりゃ。

地域社会では進歩しないことも時には大事

2009年7月17日 11:28

実は、あちこちで書いてはいるんだけど、今年の4月から、小学校のPTA会長なんぞという似合わぬものをやっていたりします。まぁ、うちの子の小学校は、地域もしっかりしているし、先生方もしっかりしているし、保護者の皆さんもしっかりしているので、会長職なんぞ本物のお飾りです。ようやく今日、お飾り生活の一学期が終わりです。本日夜、懇親会で一杯やってひと段落です。
そんな活動を眺めながら、時に思うのですが、ほとんど、やることも、やる手法も十年一日のような時代錯誤感があって、「これでいいのかいな」ときっと先端的な人なら思うんだろうなと。

たとえば、いまだに広報誌の原稿は手書きで集めて、切り貼りをして原稿を作って印刷屋に納品して、活字に起こしてもらって出来上がるという代物。僕の原稿も、デジタルで書いてから、手書きに起こして広報誌の係りの委員さんにお渡しするわけだ。
広報誌だけが時代錯誤というわけじゃなくて、ほぼ全部の活動がそう。企業等でバリバリやってきた人なら「そんなまどろっこしいことは有り得ん!」と、息巻いて怒るんじゃないんだろうかとか思う。それに、今日日の親御さんは皆忙しいわけで、そんなまどろっこしいことはなお許せん、という気分になるのかも、とかは思う。

でも、1学期を通してやりきってみて「多分これでいいんだろうな」というより「これが正しいんだろうな」と、肯定的に認識するようになっています。
確かに、企業の業務であれば、少しでも効率よく、誤りを減らすこと、付加価値を増加させることに主眼がありますから、先の広報誌をとってもデジタル化しすばやく製作して、その余力で違うことをして、付加価値を稼ぐわけです。それはそれで正しいことです。
ただ、PTAに限らず、いわゆる共助の組織の定型業務に求められる機能は違うんだろうなと。特に、メンバーが毎年のように入れ替わる共助組織であれば、メンバーがある程度固定される企業とはもっと違うことが重要になってくるんだろうなと。
それはメンバーの相互理解を得るための活動であるということが重要なんだろうなと。そういう意味では、効率の悪い手作業で構築される活動ってのは実に大事なんだろうなと。雑談でもしながら、効率の悪い手作業を一緒にやることでお互いの人柄やら何やらを理解しあうことが出来る。そうすることで、いざ地域や学校で非常事態が来たときに強い地域組織を作ることができる。

確かに、学校の部活の後輩のしごきみたいに、明らかにネガティブな理由で繰り返される、くだらない慣行は無いほうがいい。でも、すべての、十年一日の、一見すると「くだらない慣行」も、相互理解を生みやすい手法であるなら、それは繰り返されるべきなんだろうなと。地域の共助に必要なのは進化ではなく、共に行き続ける相互理解のネットワークを作ることなんだろうなと。

ま、ぼくとしては、近所の人と仲良く飲めればそれがいい社会だな、ぐらいの認識しかないけど。

手から零れ落ちるもの

2009年3月 3日 17:59

すごく抽象的ですが、最近色々な物事が手から零れ落ちていきます。何年か前にもこういうことがあったのですけど、そのときは何兎も追っかけているように、零れ落ちるたびにジタバタしておりました。
でも、今回はバシバシと零れ落ちていくのですけど、落ちるに任せればいいかという感じです。それでもなおかつ手に残ったことだけきちんとやって行こうと。親切な人は、僕に必要なことと思ってくれれば零れ落ちたものを拾ってまた手に乗っけてくれますし。さらさらと流れっぱなしにしても気にしない人もいるようですし。当然、乗っけ直しても直しても乗っからないものもありますし。
たくさんあるものを失うというのは怖い気もしますが、何でもかんでも自分のものには出来ない以上、どっかこっかでフィルターしないといけないと思うんですよね。で、僕の場合、自然に残るということをフィルターにすればいいかと。
どうなることやら。単に疲れから来るやる気の欠如かも。

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