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学問とか連携とか

本末転倒

2006年8月20日 13:13

最近、日本各地でサイエンスカフェって代物が流行っている。これ自体は全然いいことだと思うんだけど、運営者の愚痴で「どうしても、(海外で知られているようなトークスタイルじゃなくて)講演会スタイルになってしまって、雑談というかたちにはなりにくい」というのをチラホラと聞く。
僕なんかは「そりゃそうだ」とか思うわけだ。そもそも、多くの海外と日本での科学の文化的差異がでかいんだから、しょうがない。あくまで、ともに議論をし考え作り上げる文化としての知の体系としての科学として存在する欧米と、権威ある知識体系を上から教わるって得られる知と思われている日本における科学のあり方は違うんだから、カフェって場を作ったからって、日本人が急に欧米のように科学を捉えるって事はない。
いわば望む状態が本末転倒ってことだ。日本人のなかの科学観や知識観が変容するからサイエンスカフェが必要とされるんであって、サイエンスカフェを繰り返したからと行って、一朝一夕に日本人のなかの科学観や知識観は変容しない。どこぞのお役所なんかが理科離れ云々ってことで、こういう活動を推進しているけど、そう考えればこれは完全に本末転倒な話。
うちの親分がよく言うジョークで「マシンガンで打ちのめされた軍隊が、音が鳴り響いた後に我が軍が倒れているから、マシンガンではなく太鼓を乱打して反撃した」ってのがあるけど、まさに、サイエンスカフェなんて科学が文化になった後になる音。音を鳴らしたからって、科学が文化になることはない。関係者の努力を否定する気はないし、応援はしているんだけど。

やっぱり理想系って、大学人が地域人になって、地域人も普通の人として大学人を受け入れている社会だと思う。で、必要なときに、その大学人にちょいとお知恵拝借、って感じでみんなお伺いを立てる社会。そういう社会であれば、別に改めて「サイエンスのカフェ」やら「サイエンスのバー」なんかは必要がない。というか、すべての喫茶店がサイエンスカフェであり、すべての居酒屋がサイエンスバーってわけだ。
実はおんなじことをビジネス系カフェが流行ったときにも思った。別にカフェで気楽に仕事の話しをすれば良いわけで、仕事と苦行と考えないでもっと好きなことをやっていれば、喫茶店で熱く語り合う事だって簡単なわけだ。そう考えればこれも結構本末転倒な話だった。というか、改めてビジネスカフェって言わないけど、昔から、喫茶店で打ち合わせってのは珍しい話しじゃなかったりする。

こう考えていくと、実は、もう一つ本末転倒な代物がある。それはタウンミーティングって奴。こいつもやってみたら、大陳情大会だったり、バッシング大会だったりと建設的ではないことが多いわけだ。たまにしか話しが出来ないから話す市民もエスカレート。別に市長を含め役人だって地域人な訳だから、彼らが日常的に節度を持って、地域人として、色々お話しをして生活していれば済む。それこそ、ガバメントカフェだのガバメントバーだのってのが気楽に開催されていれば済む。陳情ではなく、自治体の制度設計とかありようをざっくばらんに話しをする場。こういう議論がはじめからできる素地があれば、改めてタウンミーティングなんてしなくて良いわけだ。

なんというか、政治でも知識でも、日本じゃ文化になっていない。どっちもお上のすることってなっている。で、それにかかわる人は特別視されがちである。そんなことはない。首根っこ捕まえて、適当に聞けばいいのだ。で、ムラ社会に取り込んでしまえばいいのだ。地域人として一緒に飲め、食え。
毎日の挨拶が「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」だけではなく、「(研究が)すすんでまっか」「ぼちぼちでんな」とか「(条例を)まもってまっか」「ぼちぼちでんな」って挨拶を気さくに交わせる社会を作る方策を考えれば、改めて○○カフェだの○○ミーティングだのする必要はないってことだ。

学校で教えるべきことをやってくれ

2006年5月31日 12:32

まぁ、うちの子供が行っている学校が、教えることを教えていないという意味でも無いし、学校や教職員を非難する話でもない。
最近、仕事やらなんやらで科学技術リテラシー向上に関するありようの議論をしているわけだが、やっぱりキーになるのは、義務教育でどれだけ適切な科学技術リテラシーを持たせるかということが大事だったりする。それは、短絡的な理科教育の強化ではなくて、広く科学をとらえ、人文科学、社会科学をも視野に入れた形での、「What is Science ?」をきちんと理解させることに他ならない。
そういう意味では、教育基本法も変わろうとしていることもあって、学校教育ってのは大転換期であろう。愛国心議論ばかり先行しているが、今回の改変でどれだけこういうところを盛り込めるかという重要性もある。文面に盛り込めなくても科学技術基本計画で記載されているように、今後の科学技術社会において、これをしっかり身につけることが、日本という国の国際競争力をつけることだろうし、個人個人が将来の科学技術社会において幸せに生きる指針としても最も重要だろう。そういう点では、時間も労力もコストも小学校という所に大きくかかってくる話である。
にもかかわらず、今の社会の現状はどうだろう?
以前取り上げたけど、町レベルで食育と称し朝食の提供を学校にさせたり、学校で牛乳をこっそり校長があげてみて親に追及したら親が逆切れしてみたり、挙句に所得が十分にあるのに給食費は払わないとか寝ぼけたことを言ってみたりする。
明らかに、ひところ流行った躾問題やら学級崩壊以下のレベルの話。しかも、完全に子どもの資質でもなけりゃ教師のせいでもない。こんなことをなぜ、ここまで逼迫した知に対する社会情勢において学校がやっているんだという気分。自分の子どもの将来が本当に心配なら、学校が教育に専念できる環境を親も作るべきである。

自分の子どもだけでもちゃんとこういう下地を着けて義務教育を終わって欲しいものである。という利己主義に陥ってしまいそうだ.....。

HUBだけじゃシステムは動かない

2006年4月29日 12:06

とか書いたけど、ITのお話ではない。
最近、あちこちでよく聞くのであるが、産学連携コーディネーターという輩は相互連携して、地域間を越えた連携を生み出したまえい。という議論だ。
ま、私の方はお気楽コンサルタントだし、そったらしんどい商売をしていないのでそんなコーディネートなんぞ知ったことではない。
でも、大学やら官公庁に雇われている産学連携コーディネーターは、役割として現地にどかっと居座って(というか現地内を飛び回って)、地元のネタをつなぎ続けているHUBたるべきである。いわば地域内のLANみたいなものだ。
僕も随所で書いているが、地域内というのは、各地域でプロトコルが違う。(http://www.can.or.jp/archives/articles/20030830-01/とかhttp://www.0563.net/eco/column/funahasi_051209.htmとかを参照して下さいな。)
プロトコルがここまで違うネットワークをコーディネーターが電話一本で解消できるほど甘い代物ではない。産学連携コーディネーターだけで相互に連携を取れるという考えは机上の空論他ならない。各コーディネーターが地域内LANのHUBとして機能すればするほど、彼のプロトコルは地域に近づく。よって他地域と会話が成立しない。他方、他地域の人と会話が成立するようなプロトコルで活動しているコーディネーターは、はっきり言って地域内の邪魔者でしかない。パケットを無用に遮断する出来の悪いHUBだ。

では、こうした地域間連携は不可能か。というと、必ずしもそうではない。適切な変換者がいればいいのである。HUBだけでは、インターネットは出来上がらない。プロトコルを変換する人間が、現地を行き来し、その地域間の認識ギャップを埋める努力をする必要があるのだ。
ま、自己変換力のあるパケットのような特殊な代物である。ある種の中間子である。コーディネーターがこの役まで兼ねれるようであれば、地域のHUBの空洞化が起こる。プロトコルは日々変化が起きる。それを把握し地域を回すためにHUBは地域にいなければならない。

HUBだけで世界は回らない。ケーブルも必要だしルーターのような変換機も必要なのだ。短絡的に、地域を一様としてとらえて、電話一本でDBをチャカチャカ検索すれば繋がっていくと思っているお気楽な政策立案者にはあきれるばかりである。

科学技術コミュニケ―ターは必要か?

2006年4月25日 12:04

某H大でこの事業をやっているのは元の親分みたいな人だし、これに弓を引くような、なんか自己否定的なタイトルなのだが、「科学技術コミュニケ―ター」という資格なりそういう要員なりを改めて国の予算で作る必要があるかどうかという話。

基本的に、今の日本人全般において、科学技術リテラシーは低いし、日本で研究している人々もその低いリテラシーの人のところまで降りて説明する余裕はないのは確かである。よって、そこで何らかの対策が必要だというのは筋として分かる。

そこで、科学技術に関しての媒介者というか介在者としての人材が必要だという議論になる。で、第三期科学技術基本計画には、「科学技術コミュニケ―ターの養成」ってのが謳われている。でも、ちょっと待たれいとか思うんだな。
今まで、日本に「科学技術に関しての媒介者」としての資格や職業や施設って本当になかったっけ?
「ない」と思っているあなたは不正解。
あからさまに存在している。それが学芸員であり博物館。おまけにいえば、小中高の理科教諭もそのための人材ですし、学校内の理科室もそのための場所のはず。
確かにこれがちゃんと機能していないという問題は間違えなく存在している。でも、だからといって、改めて予算を作って、その人材を養成するというのはお門違いではないか。まさに2重にお金を投下しているのだから、予算の無駄遣いに他ならない。

学芸員や理科教諭がその任に堪えないというのであれば、それは、学芸員や理科教諭の資格を与える基準を作り変えるべきだし、過去の有資格者に対して、追加で科学技術コミュニケ―ターという単位が必要とされるだけのことだろう。それは、科学技術コミュニケ―ターというカリキュラムの開発に過ぎず、改めてその有資格者を養成し、新たな雇用を税金で生み出すというのは、予算の無駄遣いで言語道断である。

たしかに、博物館を物見遊山の場所としか捉えていなくて、珍しいものを眺めて終わりの場所として捕らえたり、理科は受験の点数のために学ぶ風潮を作った大人たちが最大の問題なのだろう。だからといって、本来の業務をおろそかにし、別の人間を用意して良いという話にはならない。旭山動物園のようにアイディアひとつで、きちんと社会教育の場として復活する例もある。

本業で既に雇っているのだから、一般の人や研究者は彼らを使い倒す。そして、彼らはそういうニーズにこたえられる工夫をちゃんと繰り返す。そして、その工夫の指針として科学技術コミュニケート技法のカリキュラム。これらが必要なだけであり、意味もなく横文字の新しい資格を創出する事には何の必要性もない。国民も大学人も事の軽重を見誤ってはいけない。

蛍雪

2006年4月21日 12:01

蛍の光、窓の雪-
昔の人の学問に対する飽くなき憧れと、それに向かう態度を表す言葉だ。そこには、金持ちだから学問にアプローチが出来て、貧乏人だからアプローチできない、ということを否定する力強いメッセージもある。夜、貧乏な奴が明かりがなくても勉強しようと、蛍の光や雪の照り返りのわずかな明るさで、一生懸命、学業をしたというお話である。

いや、何が言いたいかというと、最近とみによくメディア等で目にし、近所づきあいの中で耳にするのが、「格差社会のせいで、貧乏人の子供は勉強する機会がなくなってバカになる」
というお話だ。はっきり言ってしまえば「こういうことを言う、あんたが既にバカ」ということだ。
この手の主張の内容をきちんと整理してみてみると、それがハッキリする。

この手の主張のその1「金がないから参考書が買えない。だからバカになる。」

図書館にいけ。そのために国家が整備している。あと、学校の教務の先生に言えば、参考書会社の営業マンが置いていったサンプルがうずたかく積んであるものだ。これは非進学校であればあるほど余っている(笑)。こいつをもらっても良し。金がなくても参考書はごまんと手に入る。

この手の主張のその2「金がないから塾に行かせてあげられない。だからバカになる」

そもそも、そんなものにいく必要はない。放課後&授業中先生に分からんところを聞け。そのために国家が雇用しているんだ。塾のテキストなんか無用。Z~とか塾の教科書になるような参考書も、学校には揃ってる。

この手の主張のその3「金がないから、私立のいい高校やいい中学に入れてあげれない。だからバカになる」

どこにいってもバカはバカ。いい高校もいい中学もない。本人がそこでどれだけやるかだけが重要。3流中学から1流の高校いける努力家もいれば、1流の高校で3流の大学も受からん奴もいる。どこにいれてもたいした意味はない。

この手の主張のその4「金がないから、大学に入れさせてあげれない。だからバカになる」

各種の奨学金が山のようにあります。以上。そもそも、高等教育の終わった子供の学費は基本的にてめぇで確保させてください。

このように、金がなくても、蛍雪の時代よりは遥かに良い環境下で学問ができるということだ。そうすると、昨今の学力低下とか学力格差の原因は、所得が低いこととは無縁としか言いようがない。
で、何が最大の問題かというと、「親がモノを知らない&そのことを棚上げして他人のせいにしたい」ということに尽きる。
特に「モノを学ぶということ」がどういうことか分かっていれば、お金で解決しなくても、それなりに済むものは山のようにあるし、今まで人類の知恵で金がなくても学べる環境を作るというシステムも揃っていることがよく分かるはずだ。
もっと言えば、そもそも、学問は点数をつけて良い大学に行くためにあるものではないし、金にあかせて点数を取るためのどうでも良い学力なんかつけて世の中に出ても「いいメイワク」でしかない。学問をそういうふうに捉えていれば、確かに金がある奴が有利に見えるのかもしれない。でも、知の本質はそんなことではない。

自分の子供が出来ないことを「格差社会」のせいにいして、勝手に不安がっていたら、そりゃ、子供だって勉強しなくなります。親が格差のことなど気にせずに、心を落ち着けて、本を読み、考え、議論する、ということしてください。一日、数分づつでも結構。自然と子供は蛍雪の価値を知って、自らこのシステムの中での最善の手段を探して学ぶはずです。

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