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学問とか連携とか

寝ぼけたこと言ってるんじゃねぇっての

2008年10月 9日 17:27

毎度ノーベル賞報道を聞くたびに、ツッコミを入れたくなる。
前回の田中耕一さんの時には、ノーベル賞取っちゃうような人に学士しかあげてない間抜けな文科行政をしている文科大臣が無邪気に喜ぶ間抜けさに突っ込みを入れてた。
ノーベル賞をとった人の活躍は尊敬するし、そこを茶化す気は毛頭ない。ましてや今回は、自分も末端の末端のごみくず程度とはいえ生物発光に関わったので、非常にうれしい限りだ。皆様おめでとうございます。国家の誇りです。

で、何に突っ込みを入れたいのかというと、なぜノーベル賞受賞者に成るような多くの研究者が国外流出するか、ということをメディアがコメントしているということだ。
大体だなぁ、現代の科学の最も大きなスポンサーは国家という現実を踏まえれば、日本国というスポンサーが適切に優秀な科学者を遇しているかということにしか帰着しないんじゃないのかねぇ。で、日本国ってのが民主主義であることを踏まえると、適切に遇さないのは国家の意思決定権者である国民でしょうが。大体勉強は訳にたたねぇってふざけたことを言い放って、子供らに勉強させたがらない風潮を作ってる大人(=有権者)をあおってきたのはどこのどいつだっけ。国民全体の中に学術を重んじる風潮があれば票離れに成りかねない、今みたいな間抜けな文部科学行政にはならんでしょうが。
適切に学術を尊敬する風潮があって、そういう政治家を選択すれば、日本国は適切に科学者遇するのだから、自然とそういう優秀な研究者は日本に残るでしょうが。

「そんな金つける前にとりあえず俺に金よこせ」的な瑣末な議論に終始するような政治家しか選択しかできない様な有権者を作ったり、そういう判断基準にしかならないような情報を流すことからメディアが反省しなさい。今、科学のスポンサーはどうあがいたって国家という現実は変わらん。それをよく直視しなさい。

ということで。科学の内容なんか多少わからんくても、そういう尊敬の気持ちがあることが大事なんじゃないのかねぇ。

使えるものは何でも使う

2008年9月30日 17:25

いわゆる中間支援みたいな仕事をしていると、どうしても支援者が地域の顔みたいになってしまうことが多い。
で、勢い、いろんなところに出るんだけど、どうしても日本人的感覚なのか、実際にやっていない中間支援者がでしゃばると、人の手柄で目立ってえらそうなことを言う、という評価になってしまう。そういう評価をされたくないのが潜在的にあるせいか、僕なんかはそういう風に振舞ってしまう。
でも、せっかく評判が立っていて、色々なところに出て行けるなら、どんどん出て行って、えらそうに振舞って、その団体を紹介してそこにメリットが出るんなら何でもいいんじゃないかなぁとも思う。
それで、生意気だって言われている人も居るけど、結構、彼だって確信犯でそうやっているんだし、その悪評に堪える精神力が必要な分むしろえらいのかもしれない。

自分の支援する相手がよくなるためなら、自分の評判でも何でも使うってのが、本当の中間支援者に必要なことかもしれない。だとすると、自分は自分の評判を保護するために、まだ手段を変に選んでいる分、失格のような気もする。中間支援は難しい。

勉強しなさいと叱る愚かさ

2008年8月14日 16:39

なんだか、少なくとも小学校の段階で「勉強しなさい」と「○○は終わったの」という叱り方しかしない親って、正しくバカを作るんだろうなとか思う。

大事なのは考えるプロセスだったり、そのモチベーションの組み立て方なのに、「知識の獲得と言うのはいやなことなんだけど、とにかくやればいいものだ」という誤った認識を子供に植え付けるだけなんだろうと。
やらなきゃいけないのは、「勉強をやりたい」と思わせる環境づくりだったり、考えるプロセスを一緒に追いかけて躓いたところを上手に誘導してあげるだけのことだったりする。結果が出れば何でもいいというのは、少なくとも小学校の勉強させ方として大いに誤っている。

学校の勉強ばかりを勉強と思うから、とにかく済ませて親のストレス軽減してくれってスタンスになりがち。でも、学校の勉強ができようができまいが知識の獲得さえできればいいんだという発想に立てばそんなストレスもない。

子供がこの知価社会で生きていくのに必要な知力ってのは、とにかくドリルを埋めきることじゃないって親が知らないのは、子供にとって不幸。好きでやるドリルはどんどんやらせればいい。でも、いやいやドリルをやらないからと言って、しかりつけるのは間違いだってことで。

夏休みの宿題

2008年8月10日 16:33

自営業になって完全に縁遠くなってしまったものに、夏とか冬とかの季節休みがある。文字通り、盆も正月もない生活。そんなんでも、子どもが小学生にもなると夏休みってことになるわけだ。
まぁ、去年、一昨年と趣味炸裂で子どもの宿題を手伝ったりもしたのだけれど、よーく考えたら自分の夏休みはどうだったんだろうとか思うと、偉そうにはいえないなぁと。

小学校の間で、日誌の類を最終日まで紛失しなかったためしはないし、自由研究以外の宿題を出した記憶はない。やるやらない以前に紙自体なくしてるし(苦笑)
親に宿題の指導を受けたのも、小学校2年生の夏休みに、一桁の足し算と引き算がずらっと書いてあるプリントを泣きながらさせられて、結局途中で投げ出してそれっきりになったことぐらい。多分これが、宿題をしない始まりだったような気がする。

なので、夏休みの宿題でじたばたする感覚がすでに分からん。でも、早く片付けろとなりがちらしい。でも、早く片付けることが優先されるのもどうかなぁと。本来は夏休み一杯をかけてゆったりやるべき学習量であるべきなんだろうし、自分でゆっくり考えてやればいいだけだと思う。
この夏休みの宿題のありようってのが、片付けることばかり優先されて、「知を学ぶことは形式を整えて片付けること」と勘違いされる元凶のような気もする。なんだか宿題を出す前にこういう知に対する意識付けをしっかり親御さんや子ども自身にしていかないと、なんだかおかしな話になるんじゃないのかねぇ。

せめて、自分の子どもに対しては、できなくても自分で考えてやることの大切さをゆっくり学べる夏休みにしてあげたいな。とか思う。

算数が上手になりたい

2008年1月11日 13:16

うちの娘が、今年の目標としてあげたもの。
普通、学校の勉強って「上手・下手」ではなく「出来る・出来ない」ではないかと思い、聞き返したが、やはり「算数が上手になりたい」だった。
でも、考えてみたらいいことなのかなと。

一般に「上手・下手」ってのは連続的程度に対して使われるもので、芸術とか文化的な何かに対して使われる。一方、「出来る・出来ない」は、決まった解答があることに対して、そのことを確実に出来ることに使われる。
なので、ピアノは「上手・下手」で、学校での算数なんかは「出来る・出来ない」なわけだ。

で、学校教育というのは、原則として科学教育(人文・社会・自然の全てを含む意味で)。日本にける科学の問題点を、「欧米と異なり文化として根付いていないから」と指摘する人は少なくない。変な話、科学を「上手・下手」と呼び習わす人はいないわけだ。むしろ「出来る・出来ない」として括られるものが多い。

そういう意味では、うちのガキンチョは、科学の一部である数学を文化的な何かと本能的に捉えたわけだと思うと、それは喜ばしいことではある。

まぁ、ただそれだけのいい間違えに対する親バカ的解釈の話です。はい。

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