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学問とか連携とか

ゆとり教育は本当に悪だったのか

2010年4月 9日 10:43

一応、自民党政権下においても、ゆとり教育は失敗だったということで、教育システムを再度改革することになって、いまでも、それに関わる学力低下問題をあげつらうメディアも多い。挙句に、週休二日はゆとり教育の導入での一環だとか、なんでも気に入らないものは、ろくに調べもせずに、ゆとり教育のせいにした報道までまかり通っている。

そんなにいわれるほど、ゆとり教育はダメだったのか、と思う。
実は、ゆとり教育は私が思うに、日本において制度的には最も優れた政策だった、と思っている。確かに実施において、問題点が無かったとはいわないけれど、ゆとり教育を捨てた先に日本の未来は無いんじゃないかと思うぐらいだ。

ゆとり教育を導入された文脈を一度、日本人はみんなで再考すべきだ。私の記憶する限りで行けば、受験戦争の行き過ぎで、受験中心で実社会でまったく役に立たない知識詰め込みが学校社会であまりにも横行し、それが過剰に偏重され、家庭や地域の中でもそれだけが人間の評価基準といわんばかりの教育になってしまったことが大きかったはずだ。そういう人間は、産業でも研究でも独創性が薄く、先進国の新しい産業構造化では戦力にならないという要求があって導入されたものだ。また、地域社会や家庭中での人のつながりも薄くなり、いじめや非行の行き過ぎがあって、家庭・地域のふれあいや、実社会への接点を持ちながら必要な教育をして行こうということが目論見だったものが、ゆとり教育といわれるものだったはずだ。

ちなみに、今のいじめや非行が酷いというが、実は、犯罪統計的に見れば、件数も内容も1980年代のほうが圧倒的に恐ろしい状態であった。大体、爆弾で担任を車ごとを吹っ飛ばしても報道されなかったぐらい、こんなのは日常茶飯事だったわけだ。
当然、産業力においても、暗記や調べ物や書類整理に優れている人間が沢山いても、独創性のある市場開発や製品開発を担える人材が少なく、途方にくれていたわけだ。それの最たるものがバブル時代の各企業の採用スタンスだ。一定割合で成績じゃなくて変な奴を採用しようなんて風潮があったぐらいだ。
もっというと、テストの点数が取れなくても、多角的な基準で人間を見て育成しようということで導入されたはずのものである。多様な個性を伸ばす教育を、学校・地域・家庭・企業でスクラムを組んでやりましょうって話だったはず。

ところが、いざ導入されしばらくたつと、「学力テストの点数が低下した」とマスコミが騒ぎ出した。僕はこの報道をはじめて聞いたとき、馬鹿じゃないかと思った。ゆとり教育はテストの点数を延ばすための教育ではなく、違う価値観で人間を育成するスキームなのだ。点数なんか下がって当たり前だ。
で、驚いたことに、この時点で地域も家庭もみんなで「学力低下は問題だ」と大合唱を始めてしまったのだ。過剰な点数競争状態が問題で、ゆとり教育を導入したのに、「点数=学力」という発想から抜け出せずに、点数が下がっただけで騒ぎ出してしまった。
で、まず槍玉にあがるのは「円周率を3.14ではなく3で教える」というやつ。所詮、3でも、3.14でも近似に過ぎない。どっちだって、所詮はうそんこの数字だ。有効桁数の問題でしかない。10以上で有効桁数が1桁であれば、3で十分なのだ。3.14が正しいなんて数学書どこにも書いていないし、それと学力の相関なんて有り得ない。
インド式の九九が優れているだのなんだのいうが、普通の九九で日本はキャッチアップ型の産業では十分世界をリードしてきたのだ。そんなのは、目先のテストでいい点数を取る技法以外の価値は無い。いわば、ゆとり教育導入時点で否定されたものだ。せいぜい、後進国が先進国に速く追いつくのに役に立つ程度のものだ。

点数が役に立つのなんて、受験や資格試験でいい点を取れる時程度のものだ。
むしろ、ゆとり教育が志向した、地域や家庭のふれあいや、総合的に考える力を実生活の素材を通じて学ばせるほうが、明らかに多くの場面で役に立つ。そんなことも分からないのか、といいたい。
ゆとり教育問題の主犯は、実は家庭と地域だと思う。二言目には学校の勉強は机上の空論で役に立たないといいながら、実際に机上の空論から脱却するために協力ください、と学校側が手を差し伸べて活動を始めたら、突然、今まで役に立たないとなじった、点数が下がったと家庭と地域からバッシングされてしまったわけだ。
この件では、マスコミも馬鹿ではあるが、家庭と地域の責任は大だ。本当の知識社会を見据えることが出来ないで、いつまでも、「知識=覚えること=勉強=点数=他者と比較」と思い込んでいる馬鹿さ加減。知識は生み出すものであって覚えるものではない。生み出すプロセスが科学であり真の学問であって、それを使いこなせることが学力なのだ。生み出さねばならぬ課題が多様である以上、他者との比較はある面で不可能なのだ。

別に、ゆとり教育でなくても良いので、まともな教育システムをいち早く日本ももたないと、未来がかなり危ない。いい加減、学力点数主義の蒙から日本人は目を覚まさなければいけない。

【続】敗軍の兵、将を語る/産学連携の大志、台無し

2010年3月 3日 09:29

クレーマーみたいになるので、あんまりこのネタを引きずりたくないので、こちょこちょとした書き足しは前のエントリへの追記で対応していたんだけど、だんだん分量がでかくなるので、思い切ってもう一本エントリーを立てることにしました。

前のエントリーでは、日経ビジネスの書きっぷりと、自称敗軍の将という相手への、自分の感情論も多々入っていたので、このエントリーでは現実どんな評価で、その評価に対して、どうだったのかということを追うことにする。
で、基本資料になるのは

その一
平成17年度科学技術振興調整費による実施課題等の評価結果について
北大リサーチ&ビジネスパーク構想(中間評価)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/12/05122703/010/002.htm

その二
平成20年度科学技術振興調整費の評価結果について
北大リサーチ&ビジネスパーク構想(事後評価)
http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/chousei/1279804.htm

その三
「北大リサーチ&ビジネスパーク構想」総括報告書について
http://mm.general.hokudai.ac.jp/information/548.html

の3点としましょう。でも、まぁ、文部科学省のお役人ってのも馬鹿ではないなと。事の本質をよく捉えております。

たとえば中間評価以降の期間内では育成評価委員会は期間終了直前に1回開催されたのみであることに象徴されるように、当初の組織改革と運営改革の構想が最後まで真摯に追究されたとは言い難い。本プロジェクトの後半に大学執行部の交代があったが、その影響も含め当初の構想が実現しなかった経緯と原因について大学執行部は総括し、機関としての責任を検討していく必要がある (事後評価、(1)総合評価(所期の計画以下の取組である) より)

中間評価以降、どれだけでたらめな運用をして勝手に自滅して行ったかを、文科省はとってもよく捉えています。先の僕のエントリーではありませんが、突然放り出した理由にこそ原因がある、というのは、誰の目にも明白ということです。
ちなみに、大学の総括報告書ではこの辺の責任問題はまったく回答されていません。なので、引用のしようもなし。要は、責任は誰も取らないと。国民的には32億円返せって感じではないかと。それこそ、レンホウ議員、決算仕分けでやっちゃってくださいな。とはいえ、お前に払った給料返せって言われたらそれはそれで困るんですけど(苦笑)

それでも、若干の見解の相違はあって
パテントマップの作成については、成果報告書には戦略重点テーマに関するパテントマップを38件作成したとの記述があるが、戦略的な知的権利確保のためにどの様に活用されたかについて明らかでなく、その有効性の検証も行われていない。また、戦略的重要性の高い特許のビジネスモデル27件を策定したとの記載があるが、その妥当性の検証及び改良の方向付けについては不明確であり、また後継研究プロジェクトが設定されていないこともあり、それらが戦略的に有効に活用されたとするには疑問がある。 (事後評価、(2)個別評価 より)
あんだけ、特許特許と騒いで沢山の特許屋を起用してこの体たらくだったのは、初耳でした。というかですね、連携の現場のスタンスは、ビジネスモデルが先にあっての特許だったので、特許からの思考を起点とはしていませんでした。

あと、
独立採算型のNPO法人(北大SEEDS企業体)は産業界の同意が得られなかったことなどから設立されていない。 (事後評価、(2)個別評価 より)
についても、北大が主体で作るんだから、産業界としては出来た組織と連携しますという話なので、そういう意味では協力と同意は十分取り付けていたものであると認識しています。なので、作らなかった理由は、産業界の不同意のせいでは決してありません。準備をまとめたのに、一言「やる」って言わなかった北大側の責任です。


それにしても、中間評価で「リスクはあるものの、概ね継続性・発展性の確保が期待できる取組と評価できる。(中間評価、(2)個別評価 より)」って、書いておいた中のリスクで、不作為というリスクを文部科学省は考えもしなかったでしょうね。お手伝いをしてきた僕もそんなリスクは考えませんでした。
それにしても、大学当局が出した「北大リサーチ&ビジネスパーク構想」総括報告書で、はたして文部科学省は回答して納得したんでしょうかね。僕は最も重要なこと「中間評価Aを与えた計画と準備にたいして、なぜ不作為を選んだのか」を回答していないように思いますけど。奇麗事の次への構想も大事ですが、まずはそこのところの説明を対外的にしっかりやるべきでしょう。

敗軍の兵、将を語る/産学連携の大志、台無し

2010年2月28日 21:00

あらら、敗軍になってしまいました。

日経ビジネス2月22日号の「敗軍の将、兵を語る/産学連携の大志、出直し」。いまさら読んだのですが、なんと、敗軍と言い切られていました。敗軍と名指しされた北海道大学のプロジェクトに力いっぱい携っていましたので、なんとも、許しがたい気分です。実際のところ関わった私も敗軍だと思っています。なので、敗軍といわれたことを怒る気はないのですが、怒れるのはその内容です。
以下は、本文をお買い求め、もしくは図書館等でご確認の上、お読みください。

怒れる一点目として、この弁者である北大の現副学長は、本プロジェクトに関して言えば、そもそも敗軍の将ですらないことです。なので、本プロジェクトが敗軍になった責任は彼にはありません。と同時に、したり顔であのような発言をすることも適切ではありません。
本プロジェクトが頓挫したとほぼ確定的になったのは、前任の副学長のとき。もともと本事業のアウトプットとして予定していた、本プロジェクトの構想をしっかりと書いた書籍である「「創成科学」による21世紀テクノリージョンへの提言―北海道大学リサーチ&ビジネスパーク構想」の出版と、本文でSEEDS企業体と呼ばれていた連携支援の自立的受け皿組織としてのNPO法人の設立の二点を、トップマネジメントの連中が拒絶した時点で確定しております。
いわば、本プロジェクトの出師の表ともいえる書籍を捨て、軍の編成である組織体を捨て、戦になんかなる訳ないんです。どう考えたって、兵として、民間からかき集められた側としては呆然です。経費と時間をかけて準備を重ねて、いざ出陣、となったら、突然、総大将が「解散!」と宣言したのですから。まさに、負けた瞬間です。
なので、この拒絶の経緯と原因こそが、真の敗因かと。

実際の敗因はさておいても本文だけも納得いかないこともあります。現副学長のいいぐさでは、まるで私たち民間スタッフが大学を理解せず、一方的にことを進めて、プロジェクトを頓挫させたような書きよう。
しかし、現場の実態はかなり異なっていました。多くの民間スタッフは、教員と様々な事業を形にするために、相互に協力的に手を取り合って色々な事業体を生み出してきました。
本プロジェクトを始める以前も、またそれ以降においても、大きく目立つ事業ばかりではありませんが、たとえば、大学発ベンチャーである株式会社としてジェネティックラボやGEL-DESIGNを生み出したり、また他方では特定非営利活動法人のHASTICや北海道こんぶ研究会を設立させるなどをしてきました。また、スポンジシート状の石鹸のユキハナだったり、電動ジンギスカンなべだったり、こんぶの陸上養殖などの新組織を設立しない事業ベースの連携もあります。一つ一つの地域のニーズとシーズを丁寧に、大学の先生方の事情と地域の諸事情を酌みながら、私たちのような民間スタッフがつないで共同研究や受託研究などをつみかさねて、R&BPの実を積み重ねてきました。
また、近年のグーグルなどに見られる創発型の経営というものにある程度精通している若手の民間スタッフも少なくありませんでしたので、「9時に出社しろ」などという愚劣な発言をする現場の民間スタッフはいませんでした。私たちもかなり自由にフレックスで働かせていただいていました(というか、9時出社義務みたいな下らない職場で、こんなのらみたいなのが働けるわけないでしょうが)。ですから、大学の文化を理解していない、理解する努力をしない民間スタッフはおそらく一部の人間でしょう。というか、実際に一部にそういうのはいましたけどね。敗因の一因を作ったであろう、紙切れ教団(特許派)信者と大企業病重症患者のような輩だとは思います。

加えて納得いかない点は、現副学長の書きようでは、地域や周辺はまったくこれに対して、協力してこなかったと言うことのようですが、これも実態は異なります。公設試(道立工業試験場)は、当時、出向という形で、本プロジェクトに対して技術にも地域事情にも精通していて働き盛りである年齢の優秀な職員から優先的に出していただいていましたし、隣のノーステック財団の中のインキュベーションセンターに北海道大学の知財をもとにして生まれたベンチャーを入居させているなど、地域の様々な組織から多数の協力を得ています。こうした点を抜きにして、一方的に「協力が得られなかった」と書くのは失礼にもほどがあるでしょう。各位の名誉のため、彼には、ぜひとも訂正なり謝罪いただきたいところです。こういうところは確かに大学の文化が民間から見て、おかしいと思えるところかもしれません。


ちなみに、私の個人的所感ですが、なぜ、このプロジェクトが頓挫して敗軍となってしまったのかといえば、理由は簡単です。本プロジェクトのトップマネジメントの判断力と決断力の欠如です。今述べたように、なんら文化の相違や地域の協力の不足はその頓挫の原因にはなっていません。もっといえば、地域のことも文化のことも理解しようとしない一部の民間出身の特許馬鹿と大企業病のスタッフに無用に大きな権限を与えて、柔軟な経営を行わなかったトップマネジメントのしくじりとしか言いようはないでしょう。

たとえば、大学の産学連携において、特許利用収入というのは話題にはなりますが、実際、大学からの売り上げ構成比で見た場合、どの大学においてもその比率はほんのわずかです。一時期、大きな利用料収入が入る特許の例として青色ダイオードで名古屋大学が話題になりましたが、それでも、年で4~5億円程度でした。実際、大学全体の年間総予算が800億円程度(2006年公開決算書ベース)で、交付金以外の収入を売り上げとした場合でも、せいぜい400億円程度。それから考えるに、いちばん特許収入でいちばん儲かるものでも5億円程度であれば、それ以外はそれ以下の金額な訳です。それの総和でそれをすべてまかなうというのは現実的ではありません。実際に2006年の段階で北海道大学の特許料収入は僅か2000万円(それでも全国4位)です。
ほとんどの売り上げを特許利用料以外の病院収入、共同研究、受託研究でまかなっており、またそこに地域のニーズもあり、それを丁寧に形にしていくことが重要であるというのが、現場の民間スタッフの認識だったと思います。その結果、運良く出てきた特許は長期的に役立てましょうということでしかなかったように思います。これは、まともに数字と地域ニーズを見て判断すればそうなるものでしかありません。
にもかかわらず、上層部にいた大企業から来た天下り的のスタッフなどを中心としたトップの判断で、そのような本来の地域ニーズでもなく経営的なメリットもない特許化をするスタッフばかりを増員しました。地域のニーズや実際に地域産学連携に協力してくれる教員の想いを無視をする形で、多くの共同研究を頓挫させるような事態を頻発させました。特許の書類のために地域があるわけでも、研究があるわけでもありません。にもかかわらず、無用のトップからの特許化圧力ばかり騒ぎ立て、現場が嫌気をさしたことは再三ありました。また、教員から選出されているこのプロジェクトのトップの一部も、まるでこのセクションの言うことが民間スタッフの考えのすべてという誤解を持っていたようです。その勘違いがこのような文章を生んだようにも類推します。

でもですね、連携の現場の民間スタッフはそんな愚かな発想は持っていませんでした。そういう誤解と不審が上層部の中で広まっていることは、当時の現場うすうす感じてはおりましたが、いつかはそういう連中はちゃんとトップマネジメントの場面から即座に退場いただけるだろうと信じておりました。ですので、現場では私たち民間スタッフを中心に、教職員や地域の型と協力し合いながら、先の私たちを軍になぞらえるなら戦の大義名分をかいた書である書籍の作成、文科省から求められたアウトプットであるSEEDS企業体の法人形態から理念の原案、ビジネスモデルまで着々と積み上げ、トップのゴーサインを待つところまで持ってきていました。

それが、私どもの任期最終年度の2007年度末のマネージャー級以上の会議の席で、突然、既に印刷が完了し出版直前までこぎつけた本プロジェクトの構想を書いた書籍の出版の中止を決め、SEEDS企業体としてNPO法人でいくことを決めていて、内容までしっかり決め込まれたものを申請するだけにしていたにもかかわらず、これまた中止を決め、本プロジェクトの責任者であった前任の副学長は任期切れで退任というとんでもない事態になりました。この時点で、本プロジェクトは正しく敗戦になっていたといえるでしょう。
書籍に関しては、責任者を含め各位に調整や内容確認をきちんと行ったうえでISBNまで表紙に刷り込んで製本完了済みだというのに、そんな決断をしてしまったことには、あいた口がふさがりませんでした。

まさに、判断力も決断力も欠けているとしか言いようのないことです。なりよりの証拠に、結末はC判定でしたが、2006年の段階での中間評価ではA判定だったわけです。やってみての失敗であれば、私たちのように非正規で民間から引っ張ってこられた多くのスタッフも納得いくでしょうが、やりもせずにトップの人々が単に事態を投げ出して終わってしまったので、現場としては、あきれてものも言えません。
にもかかわらず、先の寄稿で、あそこまで、ことを台無しにしたトップマネージメント側の人間に書かれる覚えはないというのが、正直な私の想いです。それにしても、なぜトップがあそこまで無謀な形でプロジェクトを投げ出したのか、現場にはまったく理解できません。また、当時のトップマネジメント側の人々からも適切な説明を受けた記憶もありません。トップマネジメントに携った人々とこれから携る人々に、このことに対する的確な反省がない限り、現副学長は本文中で立て直すとかほざいてますけど、本プロジェクトの建て直しはおそらく有り得ないでしょう。

余談ですが、出版中止になった書籍は現在AMAZON等のオンラインショップで普通に購入できるようです。これもいったいどういう経緯で販売できるようなったのか知りたいところでもあります。
ちなみに、うちに本書籍は山積みです若干数ございますので、ご関心のある方はコメント欄等でお声掛けいただければ、無償で提供します。あ、送料はご負担くださいね。


本当は、正々堂々投書しようと思ったんですけど、なんか読んだのが遅すぎたので、いまさらなぁと言うことで、BLOGにちょっと書き残しておく程度にします。

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やっぱり、諸兄のアドバイスもあったので、問い合わせフォームから投書しました。どうなることやら(2010年3月1日追記)

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とりあえず、読売で記事になっていたことも確認。以下の大阪の読売のサイトで全文掲載があったのでリンク
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/society/20091224-OYO8T00830.htm

あと、これらの大本の報告書も以下に。ちゅうか、この時点でかなりダメな分析。あらゆる事業の準備に奔走した人間としては、結局「指揮権を持っている人が未知のことを決める勇気がなかった」、というだけのことじゃないのかと思う。なんか「退任間際の校長先生論理」に似ていたのかもしれない。それにしても、まっとう各種の準備に奔走をした2007年の時点で去った人々へちゃんとヒヤリングしていないで、こういう結論を導いている本報告書は不適切。だって文化の調整も含めほとんどこの報告書で言うところの対立の構図は、現場の作業ではどの対立でもきちんとクリアしていたんだから。少なくとも僕にはヒヤリングは来なかった。

「北大リサーチ&ビジネスパーク構想」総括報告書について
http://mm.general.hokudai.ac.jp/information/548.html
(2010年3月2日追記)

勉強に対価はいらない

2009年12月17日 12:23

ぼけーっと主婦・主夫向けの情報番組をながめていたら、正解をするとポイントがもらえて、そのポイントでモノがもらえるという塾を紹介していた。番組のキャスターは、勉強する習慣がついていいとか言っていたけど、僕個人としては、そんなんでつく習慣は、目先の餌がないと勉強しないというダメダメな習慣がつくだけだと思う。学ぶという行為に何の対価がいるのかと、むしろ思ってしまう。

とはいえ、多くの家で、テストの点が良かったら、なんか買ってあげるよってのは、結構横行している。モノをくれるから学ぶ。さらに言えば、ものをくれる親のために学んでやる。それは最も誤っていることだと思う。モノをくれなくても学ぶ。学びたいから学ぶ。自分のために学ぶ。これが正しい学習というか勉強のあり方だと思う。けど、どうやらこんな風に考えるのはマイノリティのようだ。

なんで、そんな風に思うのかな、と思うと、自分の親がそうやって僕を育てたからだと思う。テストの点数が良かったからといってモノを買ってくれたことはない。買ってとねだったことはあるが、成功したためしはない。「勉強なんか自分のためにやるものだから、お母さんが恩に感じることは何にもないよ」と、言われて終了。この件だけは僕に甘かった祖母も買ってくれたことはない。
親にしてみれば、苦労人だったので、農作業の合間に新しいことを学べるというそのものの楽しみを強調していたんだと思う。そのせいか、目先の何かに対して得しないと学ばないなんて、なんだか浅ましいと思ってしまうわけだ。

確かに学ぶと得をするし、知識は上手に換金して、経済効果を生み出すこともできる。いまでも、僕自身は学んでそれを金にして食っている。でもそれは、学んだという行為に対してくれる対価ではなく、学んだコトを世に役立てた対価で、お金をもらえるということだ。なので、知識は確かに金にはなる。自分が生きるためにも知識が金になる社会は大事だと思う。
けれど、自分のためになることですら金を貰わないとやらない、そういう習慣づけをしようとする社会のありようは、おかしいんじゃないかと思うわけだ。少なくとも自分の子供は、金やらモノなんかもらえなくても嬉々として学ぶ習慣をつけて欲しいとか思う。

でもさ、ちびっ子って、嬉々として勉強したがるよね。うちの下のチビがまさにそういう状態。なんで、みんな勉強嫌いになっちゃうんだろう。不思議だ。

学習と科学までなくなっちゃうのか

2009年12月 7日 16:51

なんとも悲しいですな。「小学○年生」が一部廃刊になったなぁと思ったら、今度は、学研の「学習」と「科学」がなくなっちゃうなんて。小学生向けの、学校と無縁の知的好奇心を満たす雑誌が次々と消えて行くのがなんとも残念でなりません。
特に、「科学」の付録は、取っていない子供であっても、友人が取っていれば、共に分け与え、その本に書いてある使い方以外で大活躍したものです。今思えば、自分の知的好奇心はこの「科学」の付録と共にあったように思います。それを補強、補完するように図書館の各種文献が活躍していました。多分、世の初期Jリーガーが学校のサッカーの授業に影響されたのではなくキャプ翼で目覚めたように、僕ら世代のバイオやらITで活躍する人材の多くの理系センスの発露のきっかけは、なんだかんだいって、学校ではなくこの科学の付録だったように思います。

他方で、学習教材ビジネスは花盛りです。某社の学習教材のための付録満載の案内が来ますが、どれもこれも、地元教科書準拠、だの、同じ学区の子が何人参加していますだの、まったく持って、点数を取るためだけの脅迫販売型の教材ばかり。子供のつかみを取る教材を用意しているのにもかかわらず、そんな浅ましい目的のためだけに買うような親に、不安と共に売りつけていて恥ずかしくないのかね、と思う。
学研のように、必要な知をどこにおもねることなく、提供し続けていた同誌の廃刊は、日本の未来はどうなっちゃうんだろうって、仕分け以上に不安になります。

たのむ、点数なんて知力にも人生にも無縁だって、世の親御さん気がついてください。

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