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2012年9月のアーカイブ

社会システム対峙する知恵と勇気を持って(中高生の子供たちに)

2012年9月29日 15:40

中学生にもなると、人間いろいろ思い悩むもんなんだなと、自分の子供を見ながら思うわけで、じゃぁ、自分はどうだったのかなと。

うちの子を見ていて思うのは、多様な人間関係ができてその関係性の中で、どの関係とどの関係にどんなバランスを取るのかとか、そういうことをきっと悩んでいるんだろうと外目に見て思う。きっと、親も基本的に好きで、友達も、先生も、部活動も、勉強も、そんなに心底嫌いだったり憎んでいるわけじゃないんだろうなとは感じる。
積み木崩しのドラマで、不良になった少女が親に熱々のアイロンを母親に投げつけようとして、母親が「やりたければやればいい」と言った時に「自分の親を殺せるかよ」と捨て台詞吐いて出てくシーンがあったけど、あそこまでエスカレートしていないけど、何か分からない悩みと闘ってるんだろうなと。

んだけど、そもそも、自分は中学校の初めのころって、そんなこと悩んでなかったよなぁ。ノー天気に、爆竹の火薬をマブチモーターに友達と詰めて爆発させたり、ゲームで遊んだり、プラモ作ったり。多分、その後いじめとかにもあったけど、その辺からモノを考えるようになったんだと思う。(この辺の頃のことは、BLOGにさらっとは書いた)
なんで、いじめられるのかなとか、そもそも、なんで彼等は僕をいじめるのかなとか。表向きの原因はあるけど、それがあるにしたって、そんないじめの量とその原因は釣りあわない程、いじめってのはひどいわけです。いじめる相手を殺したからって単純に解決なのかなとか、じゃぁ、どうやったら本当に解決なのかなとか。

勉強の出来る子と出来ない子の区分が、できる子にとってもできない子にとってもある種のプレッシャーなんだろうなと、中学校3年で思い至ったんだよね。自分の中で、いじめの元凶の一つなんだなとは思った。自分という個人がそれに立ち向かう方法なんて思い浮かばなかったけど、弁論大会で、「義務教育ではない高等教育を義務のようにとらえて、学問の志向もないのに受験することはいけないことだって」主張したんだよね。だからと言って、何かすぐに変わったわけじゃない。でも、自分だけはそうやって高校を選んで行こうと思ったんだな。

でも、運って奴は結構意地悪で、高校は不合格。まるで自分の主張をあざ笑うかのように、全く自分の学問的志向と無縁の田舎の高校に二次募集で行くことに。
その時には、個人からいじめられる以上に地域社会からいじめられた。その高校を通っているという理由だけで、さんざんな目に合った。コソコソ陰口もたたかれた。本当に、こういうプレッシャーって社会一丸となったいじめなんだなと思った。今でもそう思う。その延長線上にあったのが、中学校の時にあったいじめの原因なんだなと思った。
この時、受験の序列とか、いい学校とかそういう社会が作る集団幻想が、本当に自分が対峙すべき問題なんだと自覚した。
それからは、学校内のテストの成績表は先生の眼の前で破る(序列を決めるための成績なんて無意味でしょ)という儀式を繰り返したり、大学受験を目指した(バカな高校からだっていい大学行けるんなら、いい高校なんて無意味でしょ)り、と社会と戦ってみた。結果、残念ながらそんなにその点では社会は変わっていなくて、40歳になっていまだに戦っていて、今一つその問題を解決して、いい社会を中学生の子供たちにあげるという義務を果たせてはいない。

とはいえ、そうやって戦った挙句に今の自分がある。多分、いま中学生になったみんなが抱えているモヤモヤって、大事なモヤモヤなんだと思う。そのモヤモヤの正体を真剣に追い求めて欲しいんだよね。多分それは、社会システムの問題から起因する何かであって、親や先生やマスコミが短絡的に教えてくれる問題でも、ましてや解決手法を教えてくれる問題でもない。
そのモヤモヤの原因を作り、動かし、維持しているのが僕ら大人なんだ。子供たちに学びが必要で、その学びのための時間がなぜ必要なのかと言えば、そうして社会の問題を探索し、発見し、直していくからなんだと思う。

中学生や高校生が感じる「私の悩みは親や先生は分からない」というのは本当のことだ。だからこそ、自分で考え探求することが大切なんだ。そしてそれにはきっと短絡的で簡単な解決は無い。まずは、僕自身は、学校の勉強は絶対社会に出て役に立つと信じているけど、それを身につける学校という社会システムはどうなんだ、というところからの疑問からでも始めて欲しい。
先生や親のせいにするんじゃなくて、先生や親がこういうアクションを取るようにできている社会システムに目を向けて欲しい。

そして、社会人になった時の自分の生きるテーマとして、しっかり社会システムの問題と対峙できる人間になってもらいたい。
「上手くやっていけないな」という、中学生や高校生の時の感覚は、とっても大事だ。でも、そこから自分一人を守るために逃げるんじゃなくて、しっかりその原因を生みだす社会システムをしっかり見つめて、戦う大人になって社会人になってもらいたいな。

と、自分の子供を含む、思春期の悩みを抱える子供たちに伝えたいところです。

これからの地縁組織-お役目からプロボノへ。「好き」と「出来る」のボランティアの時代

2012年9月28日 15:33

最近、あるボランティアを地域でやりたいんだけどってことで、地域の既存の施設等にお邪魔したら「そんなボランティアやるなら、とにかく既存のお役目をなんかやれ」の一点張りで、結局そのボランティア活動や仲間作りができなかった、という話が結構ある。
それに似た話で、自分もなんだそりゃって思うようなことに自分が巻き込まれたりしたんだけど、なんで、そういうことが起こるのかなとか思ったわけです。

大前提として、町内会でもPTAでも、地域に必要な機能を提供していることは間違いないのでとっても大事。これはみんな共有しているのではないかと思います。
何が問題かというと、機能に対してお役目が決まっていて、そのお役目はほぼ強制で誰かにやらせるという話になっていることが問題なんだろうなと。みんなお役目はやらないか、嫌々やるって話になっている。もうボランティアとは呼べない状態。ボランティアに大事なのは自発性なので。
で、スキルも持ち合わせていなく、やる気もでず、下手したら人数もかけている、という状態で、地縁組織をまわすわけですからパフォーマンスも出ないわけです。

全然違う流れで、最近よく聞くキーワードに「プロボノ」というのがあります。専門性を持ったボランティアといいますか、言い換えるなら「好き」や「出来る」をキーに活動するボランティアです。都内ではこのプロボノの集まりというのが沢山あります。
たぶん、町内会やPTAの事業を、そういう好きや出来るをもとに集まったボランティアで回せば、ずっと効率いいんだろうなと思います。パフォーマンスも高そうです。東京であれば、きっとそんな人はたくさんいて、多様な専門性を持った人がごまんといるから、組織に合わせた人を集めて、ハイパフォーマンスなプロボノ的地縁組織をつくるというのも、不可能でないように思います。

ところが田舎はそうではないように思うわけです。そんな都合のいいプロボノ的人材が多数いるわけじゃないですし、だからこそ一方的なお役目主義だったわけです。お役目主義が機能する前提は、きっと、農村や特定企業城下町のような皆がほぼ同じ職業的なスキルしか持ち合わせていない同質社会であることです。だからこそ持ち回りだったり多少強制でも、皆で負担を分かち合いましょうというロジックが通用したのだと思います。できることはみんな同じ程度ですから。

でも、田舎の風景も変わってきている現実は見据えなければいけないと思います。田舎に住む人も多様化してきています。企業にせよ農業にせよ、産業としての多様化が進んでいますし、衰退している自治体であれば、新しい目線で新しい産業を興さなければいけません。そうすると、数は東京ほどではないにせよ、住んでいる人のスキル上の多様さの幅は、そんなに東京と変わらなくなりつつあると感じています。

とはいえ、東京のように組織に合わせて適切なプロボノ的ボランティアを集めて地縁組織をまわす、といえるほど人数や多様さの細かさはないと思います。でも、皆が得意があって好きがある。そして、それに対する同質さは無くなっている。と考えると、その地域にすむ人々の、「好き」と「出来る」をちゃんと把握して、その「好き」と「出来る」を考慮して、事業を再構築して、みんなに自発的に動いて貰うことが、そうした地縁組織の長の仕事になってくるのではないかと思う。
その大前提として、お役目を埋めることが旨い頼みこみ屋である必要はなく、むしろ、地域のみんなの「好き」と「出来る」を把握しようという心持のあることが求められる。
把握した後は、そういう事業構築が「出来る」か、そういうのが「好き」な人を探して、後はおだてて回せばいいんじゃないのかな。その事業構築が自分の「好き」や「出来る」なら、それから自分でやればいいわけだし。

金ももらわず、嫌なことの苦労はこれから誰もしないと思うよ。役を押しつけて、自分の期を逃げ切ることを考えるより、こういうことを真剣に考える方がきっといい地縁組織になって、住みよい地域になると思うんだけど。
みんなどう思ってるんでしょうね。

エゾの歴史

2012年9月26日 20:37

擦文文化がアイヌ文化に変容したとされる十三世紀、ひたすらサハリンを北上しつづける人びとがいた。彼らは、それを阻止しようとする元軍と長期戦を行っている。(P.93)

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空きました、ではなく、飽きました。本当です。

2012年9月23日 19:24

人生の中で、いろんなことが飽きっぽい人間でした。
そんな僕でも、多分これ一生ハマってるんだろうなと思ったのが、TVゲームです。小学校の5年生から本格的に遊び始めて、中学生の時には趣味が高じて自分でプログラミングまでしていたわけですし。それがある日突然、理由もなく飽きちゃったんですね。あれは変な話、飽きた自分に驚きました。大学一年生だったと思います。
高校生の時には、朝起きて、SEGA MKIIIにその時はやりのゲームのカートリッジを入れて、一通りクリアしてから登校したり、食事の前にも、食事の後にも一回のゲームというぐらいで、大人のたばこぐらいの習慣化した何かなぐらいだったわけです。
それが大学生になってしばらくしたら、完全に飽きちゃったわけです。理由が全く自分でもわかりませんが飽きました。
とは言えゲームが嫌いになったわけではないので、リバイバルでフリッキーとかスタージャッカーとかあれば何となく手をつけますし、友人の家で珍しいゲームを見れば少し触りたくなりますし、娘が変なゲームアプリを手に入れていればやってみたくなるのですけど。

でも、概ね飽きたわけです。なので、手がすいていて、どうしても一緒に遊べと子供が言えばやりますけど、そんなことでもない限りもうやらないんです。

で、先日の東京出張の夜、突然飽きたんですね。酒に。
なんか、このゲームの時と一緒な訳です。自分の人生の一角を占める重要なツールであり、人生そのものじゃねとか思って、ほぼ20年連れ添ってきたわけですが、なんと、飽きました。
お酒を嫌いになったわけじゃないんですよね。でも、お酒飲むわくわく感とか、お酒にありつける喜び感とか、そういうのを一切感じなくなったんですよ。完全に飽きたという表現がぴったりです。
たぶん、ゲームの時と一緒で、誰かと飲み行くって時にふつうに飲んだりするだろうし、友人やいきつけの店が秘蔵しているいいお酒なんかをちょびっと飲ませてもらったりとかもするとは思います。
だから別に酒を断つとかそういうわけではないんでしょうけど。
多分、今まで僕と付き合うのに無理してお酒を飲んでいた方なんかは、無理にお酒の席にしなくても大丈夫です。僕を口実に飲んでいた人はこれからも安心して口実にして下さい。ということで、お酒に対するスタンスが変わったよっていう、ちょっとしたお知らせでした。

本当に、飽きるってあるだな。それだけ色んな酒を散々飲んだんだな。20年で。我ながら感心するよ。

それからの三国志

2012年9月19日 18:36

「ままよ。その時はその時。どうなるかは考えまい。どうするかのみを考えよう」(上P.44、姜維)

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