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神仏は他人の為にある

2006年12月 2日 13:47

厳密に同じではないけど、こういう趣旨のことをとある尊敬する経営者より頂いた事が。

まぁ、科学哲学みたいな信仰という行為に対してハードな学問体系を嘘でも修了した人間としては、いわゆる神仏ってのはさほど信じてはいない。それでも、なんだかわからんけれど習慣としても、また普通の人間として自分の力の限界という点でも、お祈りはよくする。
ここ一年間だけでも、出雲大社、豊川稲荷、出世稲荷、高台寺、清水寺、厳島神社、忠盛塚などなど、かなりの数のお参りをしている。人間の認識から構成されるものが存在する唯一無二ものだなどという経験主義者で合理的な行動を行う人間であれば、ありえん話である。
時々、自分でも何を祈っているのか分からないことも数多い。

最近、占いやら何やらというのの結果を聞くんだけど、大体こういうのってのは、自分のことを対象に占って、自分の今後の指針を聞くという代物。で、それと同じような感覚で、自分が少しでもよくなるようにと、神仏にお祈りしがちな気もする。そういうこともあって、あんまり神仏にお祈りするのは神頼みっぽくて嫌いだったりする。

でも、最近はちゃんと方向性を持ってお祈りをしている。その方向性はその方から聞かせてもらった内容がそのまんま。その方の言うことを勝手に要約すると

神仏は自分の為にあらず、他人の為にある「神仏を信じて神仏に頼らず」
どういうことかというと、自分一人の時は方向、方角、時期、お墓参り、供養等、何も考えず、寧ろ、多くの悪い条件で苦労し、自分を鍛えることが必要。一人で火の中に飛び込めば自分を鍛えられ、一時期はことが成就しなくとも、やがて必ず、成し遂げられる。これは、家族なし、部下なしの時。
立場が複数になり、上になった時、すなわち一人の部下、一人の他人の事を考えねばならない立場になった時は、自分の手の及ばないとこを神仏にお願いするしかない。そこではじめてお祈りをするもの。

ということで、手のとどかない範囲をお祈りをするというのがいいことだと。認識の外は祈る以外やりようなし。手の届く範囲は神仏無視して悪鬼羅刹になってでもやり遂げるのみってことで

僕は、家族と取引先と友人知人のことを祈るぐらい。今日も、何かに祈るとしましょう。

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