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2005年11月のアーカイブ

廃業

2005年11月22日 10:10

事業をしていると誰でも一度ぐらいこれは考える(と思う)。

個人の人生を個人の意思でやめるのが「自殺」なら、法人(もしくは個人事業)の存在を事業者の主体で辞めるのは、この廃業。表現を変えるなら、「法人の自殺」見たいなもんだ。
人それぞれなんだろうけど、僕は、この廃業をちょくちょく考える。3年で1円でも黒が出なかったら「廃業」と家族に言われていたこともあるし、いまでも、やっぱりこれは考える。ここんところ出張の疲れもあってなおそうだ。

私の場合、「儲からないから廃業」というのは、案外考えない。やっぱり疲れているときとか、プロジェクトの進行が各社の善意に基づいて遅れている場合とか、周りが自分の都合を振りかざしてことが進まなくなっているときとか。小事業主(=SOHO)だと、どうしても自分一人じゃ何もできないので、人間関係というか法人関係で悩むときなんだな。
#人の自殺も、人間関係が多いみたいだしね。直接的引き金が金であっても
#やっぱり人間関係がらみ。

幸いにして、Aという関係性の中で廃業したいぐらい困っていても、Bという関係性の中では、偶然にも必要不可欠という状況があたったりするので、そう簡単に廃業はできないで今まで来ている。
そういう意味で、廃業しないで生き残っているということは、何らかの形であれ世の中に必要とされているってことなのかもしれない。

田舎にこもって一人SOHOをやっていると「必要とされているということ」が見えにくくなる。余計心労がかさむし、疲れる。疲れると、廃業をどんよりと考え出す。どんよりと考えると回りに対して疑心暗鬼になる。疑心暗鬼になると法人関係がうまくいかなくなる。そうなると疲れる。と、どんどん、気分は廃業に向かう。

何がいいたいのかというと、廃業と向き合いながら仕事をすることは大事だけど、周りと常にコンタクトとコミュニケーションを直に対面して行なっていないと、それは気分を暗くするだけのこと。

明るく楽しく、廃業と向き合いながら仕事しましょう。

吉田メタパラダイム論に対する3つの疑問

2005年11月 2日 10:09

日曜日の勉強会と学会発表は何の会合だったかというと情報社会学学会という代物です。そこで私サブのサブで発表したのですが、メインの話題が、東大名誉教授の吉田民人先生の「大文字の第二次科学革命」という内容でした。
時間と私のほうの整理がつかずその場で聞けなかったので、とりあえずメモを残します。

吉田メタパラダイム論の主張
1.個別科学のパラダイムシフトは論じられていても科学全体のパラダイムシフトは論じられていない
2.既存の科学全体のパラダイムと呼べるものの構造は、「物質やエネルギーという対象物とそれを律する法則によって世界が構成されているという考え(信念)」
3.このパラダイムでは、ゲノムを中心とした生物科学の生み出す秩序現象や、人文、社会科学の様々な現象に対する十分な説明や理解を提示できない
4.新しいパラダイムとして「物質やエネルギーという対象物とそれを律する法則に加え記号によって記述されるプログラム(ゲノム情報や社会規範、常識、ルールetc)によって世界が構成されているという考え(信念)」を導入すべきである。
5.この2と4をそれぞれメタパラダイムと呼び、2から4への転換を第二次科学革命と呼ぶ。加えて2を古いメタパラダイム、4を新しいメタパラダイムと定義する。
大雑把に書くとこんな感じかとおもわれる
#多分詳細は、そのうち、情報社会学会のWebにアップされることとおもわれます。
#この理解が正しくないかもしれませんので、そちらでご確認下さい。

このパラダイムに対する三つの疑問

1.プログラムは実在か否か
どんな科学哲学的立場を取ろうとも、目の前にある物質やその物質付与されている性質等は実在として取り扱われる。プログラムという概念は、こうした意味合いにおいて実在なのか、それもとも「科学的記述の一環」として、それぞれの信念や立場で「実在であったり実在でなかったりする」ものなのか?

2.反証に対する棄却は法則に働くのかプログラムに働くのか
新しいメタパラダイム内で科学理論の正しさを知るためには、あるプログラムAとある法則群aを組み合わせて、一定の予測をしそれに対して実験的結果を得て、検証なり反証なり実証なりを行なう事になるはずである。
A+a→B
という予測が立つ時に、結果がCになった場合、その間違いの原因をプログラムに求めるのか、法則群に求めるのか、両方とも棄却するのか。その辺の研究計画に対する指針が不明瞭に感じられる。

3.社会科学におけるプログラムはまさにパラダイムそのものではないのか
クーンの定義する所におけるパラダイムというのは、その人の行動や考えを律するようなコミュニティ内のルールや規範(明文化か否かは別で)でもある。そう考えると、社会科学における各種のプログラムというのは、クーンの主張する所のパラダイムそのものであるはずである。クーンの主張したパラダイムをプログラムと呼びかえれば良いのか、それとも、クーンの主張のほうを書き換え、彼のパラダイム定義を修正すべきなのか。


たまにはまじめなメモということで。

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