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1998年5月のアーカイブ

ニッカシングルモルト21年

1998年5月28日 23:00

情緒不安定な今日このごろ。
仕事はそんなんでもないけど、
自分の心のありようについて悩む。
で、部屋で一人飲んでいるが、
いつものチャット相手もいないし、
飲みに行こう。

って、テクテクといつものバーへ。
夏休み前なのか、混んでるなぁ。

M「ども」
F「座れる?」
M「どうぞ奥あいてますから」
W「いらっしゃい」
F「ふぅ」
何やら、カウンターの中は戦場のようになっている。
料理を作るは洗い物をするはシェーカ振るは。
Wシェーカー振りながら、笑顔で
「えと、Fさんは、いつもので」
F「はい」
振りおわるや否や
W「レモンので良かったですよね」
F「はい」
で、最近お気に入りのブルームスバリーが。
飲みおわる頃に、何やら、重そうなデキャンターを 目の前に。
W「へへへへ」
F「今度はなんすか?」
W「ジャパニーズウイスキーも捨てた物ではない
F「???」
W「ニッカ、好きですか?」
F「何を寝ぼけたこといってるんですか。わたしゃ、道産子」
W「じゃあ、余市とかも」
F「おいたら、飲みますよ、で、これは?」
W「ニッカシングルモルト21年バカラデキャンター」
F「ニッカの21なんてあったの?!」
W「へへへ、飲みたいでしょ?」
F「当然!」
静かにショットグラスに注がれる21年もの。
うーん。良く寝かせたウイスキーらしい、やわらかで、 芯のある香り。
口に含むと、ニッカモルトの特徴ともいえる スコッチっぽい甘みが。
W「どうです?」
F「脱帽」
W「ちなみに、これいくらだと思います?」
F「うーん?いくらなの?」
W「13万円」
F「た、高い」
W「でも、きっと、値段の半分以上が、バカラの入れ物ですよ きっと(笑)」
F「普通の瓶で売って欲しいね」

あとは、これ一点張り。
まぁ、故郷の味といえば味なのかな。

気が付いたら、朝。
自宅。
ネットは繋ぎっぱなし、チャットはやりかけ。
相手は呆れて先に寝ている様子(笑)
酔っ払ったまま、ネットはやるもんじゃないですね。

TVゲーム主犯論に物申す!

1998年5月25日 23:30

さすがの私も、今回は頭に来た。
こんな、大馬鹿者が日本社会の主流の責任ある地位を占めているとは。
呆れてものも言えないとはまさにこの事。

1998年5月25日のマンデー日経。
ヒトこと-「キレる」少年どう思う?

某社、経理部次長曰く

>テレビゲームの影響が大きいと思う。
>ゲームの世界と現実を混同してしてしまわないかと心配だ。

根拠はなんだよ。
確かに、Realの意味は遷移してくだろうけど、
「キレる」ことの原因といいきる根拠はなんだよ。
で、どうやら、根拠は次の事らしい

>外遊びが減ったのも気になる。
>昔は集団遊びのなかで自然に対人関係を学んだが、
>今はそういう場もなく、

外遊びが減ったのは、TVゲームのせいじゃないでしょ。
あんたら、経済人たちが経済効率だけ考えて、
外遊びの場を奪ったんじゃないの?
さらには、自分たちに都合の良い受験社会を賞揚して、
外で遊ぶ時間を奪ったんじゃないの?
だから、子供たちはTVゲームで、心のガス抜きをするんでしょ?
原因と結果を自分たちの都合で入れ替えるなんて本末転倒。

>相手を思いやる力が弱くなってるのではないか?

それはあんたでしょ?
子供を取り巻く環境を目先の利潤と給料だけで考えて
子供たちを取り巻く環境の事をちゃんとみてないでしょ?
何にも思いやってないじゃない。


ああ、腹立たしいというか、嘆かわしいというか。
もっとも呆れ返るのは、こんな見解を、疑いもなく掲載する 日経の編集者。

切れる事に関して言えば、悪しきはTVゲームにあらず。
むしろ、キレる子供たちの有効な緩和材として機能してる。
原因はそんな少年を量産するような社会を作って、
反省一つしてない、こういう大人たちだ。
自分が、作りだし、支えてきた社会をもう一度見かえしてもらいたい。

今の社会に順応して、いい思いしてる人間に、
今の社会を変える勇気はないのかもしれないが。



この駄文を書いた後、ゲーム批評7月号にて 某誌編集長がゲームバッシングに対するコメントで

「ゲームの影響を受けていると言われる、すぐキレる人にはゲームのエンディングなど見られないと思う」

というコメントが載っていた。
これは、まさにその通り。あんな難しい今のゲーム、 すぐキレてたらエンディングどころじゃない。 一昔の前のゲームごときの難しさにキレていた、 私の方が、よっぽど切れやすいというもの。
今のゲーマーの方が、よっぽど忍耐強い。

ゲーム業界側も、こういうセンスのある 切り返しが出来るようになってもらいたいな。 (自分への反省も含めて)

ダバダ火振

1998年5月18日 23:00

まぁ、知ってる人は知ってますよね。
有名な栗焼酎。
ここ数日、K先輩(うー。イニシャルKがいっぱい)が 私の家をねぐらに活動。
いろいろあるようですが。
それはさて置き、この先輩と会社の帰りにでも そとで、いっぱいやりましょうという話しになり、
中野へ。

まぁ、中野なら、新宿近いし、新宿出てその辺のバーで
と思ったら、携帯がつながる地上がいいとのこと。
なにやら、連絡待ちのご様子だ。
おまけに中野の駅側がいいらしい。
中野まわりのバー事情はさっぱり分からないので、
ちょっといやだなぁとは思ったが
「Fさん、ここは私が奢りますよ」
のひとことで、あっさり妥協。
その辺の安居酒屋へ

店に入ると、壁中にお酒の御品書きが。
店員「いらっしゃいませ」
K「とりあえず、ビールでいいですかね」
F「ちょっとまって」
店員「ご注文は?」
きょろきょろ見てみると、いろいろあるぞ。
なんか、地ビールがあるなぁ。
F「えと、あの、地ビール」
K「じゃ、私も」
地ビールを飲みながら、延々と会話。
結構ディープな科哲の話しなので、その辺は略(笑)
K「ここは、焼酎とか地酒とか結構あるみたいですね」
F「そうですねぇ」
K「次はその辺で行きましょうか」
しかし、目が悪いため、壁の御品書きが良く見えん。
よぉくめをこらすと、

ダバダ

の3文字が。
これだけが、シンプルで読める。
K「北海道の御酒はないんですかねぇ」
F「うーん、良く見えません」
すでに私の心はダバダへ。
でも、私にとって、この場はまさに視力検査場のよう。
注文したくても、読めん。

でも、ダバダって、外で売ってないんじゃぁ......。
これは飲みだ。自分の金じゃないし(笑)
F「じゃ、私はダバダで」
K「え?良いんですか、なんか、安いみたいですよ」
F「文字良く見えないんですが。ダバダって結構珍しい焼酎だったような」
K「だって、380円って」
沈黙
K「おまけに半額フェアらしいですよ」
F「...............(ほんとに大丈夫か?この店)」
K「すいませーん」
店員「はい」
F「私がダバダで、そちらが男山を」
しばらくして、きましたきました
普通のコップで。
まさに、居酒屋という感じ。
ちょっと、口を付けてみると
なるほど、焼酎にしては甘い。
飲み口も比較的やわらか。

Kさん、不安げに
「それ、美味しいんですか?」
F「さぁ、飲んでみます?」
K「じゃぁ、ちょっとだけ」
F「栗焼酎なんですけど」
K「はぁ、言われないと、栗入りってのはわかんないですね。 でも、飲みやすい焼酎ですよね」
F「しかし、これが190円」

まぁ、お酒の美味い不味いは値段じゃないですね

コペンハーゲン解釈

1998年5月13日 00:00

実は、「これがコペンハーゲン解釈」と言うものが、必ずしも、明快に 存在しているわけではない。あくまで、量子力学の巨星、ニールス・ボーアの 所属する研究室のある、コペンハーゲンの地名を取ってそう呼ぶ。
よって、当然ながら、ニールス・ボーアの解釈が、コペンハーゲン解釈の 基礎となっていると言っても間違いはないだろう。

この解釈のキーとなるのは、やはり、かの有名な「相補性」であり、また、さらに、 測定していない物理量について議論する事は意味がないという態度にあろう。

ニールス・ボーアの活躍した量子力学の黎明期において、光の本性が 粒子なのか波動なのか?という事、さらには、位置と運動量の 両者を確定しうるか?という事は、大きな問題であった。
その解決の手段として、ボーアが提起したのが「相補性」である。 そして、「観測器と切り離せない対象」という考え方である。

たとえば、位置を測定するセッティングにおいて、われわれが得るものは

位置を測定するプロセスにおいて、
かくかくしかじかの値を得る。

という一連の現象であり、われわれが知りうるのは、あくまでも位置であって 運動量の事は一切議論し得ないのである。
同じく、運動量を測定するセッティングにおいて、われわれが得るものは

運動量を測定するプロセスにおいて、
かくかくしかじかの値を得る。

という一連の現象であり、われわれが知りうるのは、あくまでも運動量であって 位置の事は一切議論し得ないのである。
あくまでも、われわれが得る事が出来るのは、どちらかの値だけであって決して両方を得る事は無いのである。

そして、測定器が無いときの対象のそれぞれの値を議論する事は 意味が無いのである。あくまでも、物理量とは、その物理量を測定する測定器があってはじめて成立するのである。
そうでない物理量は、その対象には付与されないのである。

当然これはわれわれの直感に大きく反する。
それが、アインシュタインらとの大きな論争を生み、また、現代においても ボームらなどの新たな解釈を呼び起こしている。

また、この解釈が量子力学の覇者とも言われるが、実際にここまで厳密に「測定しないものはない」というスタンスで、現場の科学者が量子力学を解釈し使っているとも思えない。量子科学の世界では常識的なLCAO法やフロンティア理論などでの、波動関数の取り扱いを見ると、それは明らかである。
そうすると、本当の、覇者とも言える量子力学解釈は何なのだろうか?

量子力学解釈

1998年5月12日 00:00

一般に科学の理論は数式と経験に関する
フォーマリズム
の部分と、 それらの意味することが何なのかということを示す
解釈
の部分に別れる。
(この見解についてもまだ議論を要するが)

同様に、量子力学に置いても 数式や経験に関するフォーマリズムといわれる部分がある。
一般にはヒルベルト空間のベクトルで波動関数を示し、 その波動関数の2乗を実験時得られる値との 確率的関係で示せる。
大雑把に言うとそういう事だろう。

さて、この時、そのフォーマリズムの示すものは何だろうか?
例えば、波動関数の意味する事は何だろうか?
また、また、波動関数の示す確率は何者だろうか?
これには様々な解がある。

どの解釈をするにせよ、一種の奇妙さからは逃れられない。
と、同時に、どの解釈をとっても、実験では どれが正しいかは決められない。
実験ではフォーマリズムの部分しか確認できないからだ。

これは、各種の深刻な問題を引き起こす。

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