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実在主義と量子力学

1998年4月 6日 00:00

HANS PRIMAS
量子力学の実在主義的な解釈は必要である。
概して、現場の科学者達と言うのは図々しい実在主義者で、
頑固に外部の世界が実在しているということを信じている。
多くの理論家達にとって、この信念は物理理論の唯一の存在
理由なのである。
彼等は、本質的に世界がどのように「存在しているのか」と
いうことを記述したいのである。
しかし、多くの有名な論文や書籍、研究発表では
量子力学実在主義とは両立し得ないということを
われわれに教えている。
もし、この観点が本当なら、非常に困ったことである。
量子力学は最も実験的に確証されている科学理論なので
科学者達はその理論を放棄しようとは考えない。
多くの量子力学上の予測が直感に反しているのにもかかわらず、
ただのひとつも、量子力学に矛盾するような実験結果は
存在しない。
確かに、まだ問題は残っているが、経験と理論との間の矛盾のような
悪名高いものではない。
他方、量子力学の確証の多くは日常の実在主義(everyday realism)に
基づいているので、実在主義を放棄するということも出来ない。
その初期において、量子力学はミクロ世界の理論と認識されていて、
ほとんどの科学者は、彼等が実験器具のミクロ世界と日常世界の
違った存在論を整合的に受容できないということを認識していなかった。
今では、もはやこのような立場を取ることは出来ない。
なぜなら、DNA分子のような、生化学的に重要である量子的性質と
一般に重要である古典的性質の両者を兼ね備えた中間領域(mesoscopic)の系に
おいても、量子力学は正しいということが知られているからである。
科学者達は実験室での経験の中のある種の実在主義を諦めたくはないので、
実際に、量子力学の実在主義的解釈が必要とされている。
多くの哲学者や理論物理学者によって支持されている量子力学についての
哲学的考えは現場の科学者の実践とは両立しない。
量子力学についてのしっかりと基礎付けられた哲学的論文が存在しない
ということは、研究上、教育上、有害な帰結をもたらす。
それにもかかわらず、量子力学は危機的状況に決して陥ってはいない。
問題は、多くの科学者と哲学者達が、最近の量子力学の進展を知らない
という点である。それゆえ、未だに彼等は、観測問題のような量子力学の
概念的問題を限られた閉じた系でしか正しくないような古臭いヒルベルト空間での
量子力学を用いて解こうとしつづけているのである。
はっきり言えば、そんな系は存在していない。
このことは、閉じた系というフィクションを研究することが有益ではないと
いうことを意味しているのではなくて、完全に成長した理論と一時的な試みを
混同してはならないとうことを意味しているのである。
この意味で、Niels BohrやWerner Heisenberg、また、他のパイオニア達の
描いた解釈は、現代の量子力学の概念的問題に満足行く回答を与えはしないのだ。
私は、以下のことを注意深く研究すべきだということを主張したい。
i)
実在主義の意味するところと、古典物理において理解されているような
実在主義から引き継がれた考え方を削除するべきかどうか。
ii)
現代の観点から量子力学の意味するところと、われわれが量子力学について
理解していることにおける哲学的に重要なことというのは、ここ60年において
変化したかどうか。
デカルトの区分、原子主義の死、現代科学の限界
古典物理学と現代科学の大部分は自然は本質的に二つに区分できるという
デカルトの考え方に依存している。心(内部世界?)と物質(外部世界?)
である。
加えて、工学者と実験科学者たちには次のような暗黙の仮定が存在する。
自然は操作しうるものであり、実験によって要求される初期条件は、
研究対象となる物に対して影響を与えない手段(mean extarnal to)によって
生み出すことが出来る、という仮定である。
そして、物理学の第一原理(first principle of phisics)によって
説明されないある種のアクションの自由を実験者が持つことを、
私達は当然のことと考えている。
男の自由には、アクションを実行する能力も含意している。
それは、アクターとしての彼のエッセンスを構成している。
この選択の自由無しには、実験は不可能であろう。
実験科学の枠組みは暗黙の仮定を通じて、このアクションの自由を
構成物として要求している。
伝統的に自由は精神世界に属するなにかとして理解されている。
そえゆえ、軽軽しく、デカルトの二元論を、現代科学が
捨て去ることは出来ない。
多くの科学者と哲学者は、量子力学を近代物理学、分子化学、
分子生物学などの基礎として賞賛している。しかしたまに、
量子力学は原子主義の終焉をもたらしたとして非難されることもある。
物質世界は相互作用する要素系によって構成されているという
歴史上の考え方は、量子力学によって示唆されている構造と
鋭く対立している。
量子力学によれば、物質世界はひとつの全体からなっている。
その全体は決して部分からなっている物ではない。
もし、量子力学をきちんとした(serious)な物資の理論だと考えるなら、
伝統的な形而上学的な仮定を持つ物理的実在の古典的描像を
受け入れることは出来ない。
実際に、物質世界の不可分性と非局所性、そしてその全体主義的な性質は
古典力学で受け入れられている存在論とは両立しない。
物質世界におけるよく確証された全体主義的な特性は、
物質の実在を精神の実在と区別して考えるというデカルトの考え方に、
疑いを投げかけた。
端的に言えば、この考え方は誤りであると。
それにもかかわらず、現代の実験科学において、主観vs客観と言うような
認識論的な二元論を要求する。
量子力学は、実在についての今日の科学における考え方に限界を与え
狭めたのは確かであるが、量子力学はとうの昔にデカルトの二元論を
諦めたというようなしばしば聞く言葉にはなんの根拠もない。
量子系の全ての実験的な研究において、測定器具はたいてい、古典物理、もしくは
工学物理を用いて記述されている。量子力学において、古典物理学以外の
いかなる方法を用いようとも、人間の意識というものが、物理学の論述(discourse)に
入ってくることはない。
Wolfgang Pauliの言葉によれば
~ドイツ語なので略~
実際に、現代の量子力学-全ての実験主義者に用いられているような-は、
デカルトの二元論とのある種の「平和な共存」の中にある。
このことは、決して、デカルトの分割を誤解していないということを
意味してはいないし、非デカルト的な科学を生み出す試みをしては行けない
と言うことも意味してはいない。
しかしながら今日の物理学は、そのようなプロジェクトをはじめる事に
悪意を持っており、技術的にもそういうことをすることは出来ない。
現在は、量子事象を意識の事象に結びつけることは、SFだろうし、
意識の過程の表現を、脳の過程の物理的表現に埋め込む試みも
そうだろう。
物理の領域に意識を含むような理論を聞いたことも無いので、
私には、今日の科学の推論において何らかの飛躍が存在しているという
ことを認識することが好ましいと思える。
この意味において、われわれが自由に利用できる今日のどの物理理論も、
本質的に不充分な理論である。それらは、精神と物質の相補性を
取り扱うことが出来ない。
現代の量子力学は、「見る」部分と「見られる」部分への分割をもつ
工学的なアプローチを要求している。
量子力学のフォーマリズムによれば、この区分は文脈依存であって、
デカルトの区分で特定できる物ではない。
デカルトの分割は、実在全体を外部世界と内部世界への内在的(intrinsic)
分割を要求する。
一方で、工学的量子力学は、実在全体を文脈的主観-客観によるテンソル積分解
を要求する。その分解は、観察される対象と観察器具との間にEPR相関が
存在しないような物である。
この要求は、実験科学の前提条件である。
代数量子力学(algebraic quantum mechanics)のフォーマリズムでは、
観察器具は古典量子系としての表現を持つことを含意している。
量子力学の全ての工学的応用において、意識を持った人間という観察者は、
ボーアの言う意味で「心を持たない観察者(detached observer)」として
実験者をみなすことが出来るという意味で、観察器具の一部である。
同様に、デカルトの分割を古典的領域に置く事によって、量子力学と
デカルトの存在論の直接的な衝突は避けられる。
このことは、人間の観察者の役割を、古典的測定機器の数量表示を認識する
という単純なアクションへ還元するような、観察と記録のデバイスで
しばしば完全に自動化される現代の実験技術に、合致している。
それゆえ、観察する科学者の自由意思と認識というものは、古典物理や
工学において彼等が持っている役割と、全く同じ役割を果たす。
また、宇宙論や生物学的な進化において、意識を持った存在者の存在に
依存していない客観的な出来事やコード化や表記がが存在している。
それらの理由から、一般に、可能性から事実への不可逆な遷移は、
人類学的な準備や表記上の手続き、さもなくば人間という観察者の意識には
全く依存しないと結論する。
実在主義
歴史的なコペンハーゲンの観点は量子力学を普遍的な理論とはみなさない。
前提として、観察器具は量子力学的には記述されないのだ。
コペンハーゲンの見方によれば、量子力学は、量子事象の確率の計算の
規則を与えるだけであって、事象それ自身を記述する物ではない。
この態度は、量子力学の黎明期において、合理的であった。
なぜなら、当時、開いた系とその環境との相互作用を記述する数学的
道具が利用できなかったからだ。
量子力学の観点から現代の分子科学や分子生物学の現象を分析するのには、
コペンハーゲンの見方では充分ではない。
分子や中間領域の科学において、中間領域や巨視領域の系を含み、
量子的性質と古典的性質を兼ね備え、客観的なやり方で個々の
力学的過程を記述できる、分子領域全体において普遍的に正しい理論が
必要である。
古典物理学の原子主義的な見方は量子力学の全体主義的な見方とは
全く違うので、古典物理学で用いられている実在についての伝統的な考え方と、
量子力学で要求される実在の考え方は衝突する。
しかし、これは単に衝突でしかない。
哲学者達は、彼等の試みにおいて、実在主義によって意味されるであろうことの
表記を与える事に十分な注意を払っていないからである。
大多数の伝統的実在主義哲学者の見方と言うのは近代科学の結果と
両立し得ない。
実在主義の主張についての多くの定式化は、科学の領域にその主張を持ちこむと
評価が困難になってしまうほど曖昧な物ばかりである。
しばしば、そのような定式化は、物質世界の根拠の無い仮定と、
全くいいかげんに結びつけられている。
たとえば、次のように言われたりもする。
(恐らくは何らかの近似的なやり方だろうけど)実在主義的解釈において、
理論語は純粋に世界の中に存在している対象を参照している。
こういった特徴づけは認められない。
なぜなら、世界の物理構造の特殊な仮定をしているからだ。
すなわち、世界は整合的で、しっかりと定義されて、
独立に存在している対象から構築されているという仮定だ。
現代の量子力学の観点から、(物理空間においてはっきりと
局在化していると暗黙のうちに仮定される)「物質的対象」を
「物質的実在」にアプリオリに特定するということは、受け入れられない。
なぜなら、-「物質的対象」の正確な意味がたとえなんであれ-
独自性(individuality)を持たない、EPR相関で絡み合ったような系を
想像すべきであるからだ。
量子力学は「モノが本当のところなんであるかのようなこと」を記述しない。
なぜなら、量子力学によれば、絶対的な意味合いにおいて、
いかなるモノも存在しないからだ。
同様に、巨視的対象もEPR相関によって相関している。
われわれの元来のパターン認識のメカニズムや常識についての考え方に
対応した記述は、そのようなEPR相関は無関係ですと断言した場合にのみ
可能になる。
科学はそのような抽象概念なしには存在し得ないので、そのような要求は、
不合理ではない。
全ての科学的記述は、結果に影響するけれどもそれを無視すると決めるような
決断に依存する。
それにもかかわらず、要素粒子(電子のような)から物質がなっていると
主張しなければ、量子力学は文脈依存的実在主義解釈を許される。
われわれは、物質の実在を-近似的環境下で-要素系を用いて記述できる
より賢明である定式化を用いるべきである。
そうすることによって、要素系を用いて最もよく記述されたやり方によって、
適切な実験条件のもとで、物質の実在の客観的な性質を明らかにすることが
出来る。
科学理論において、実在主義の問題は、物質の実在の存在論的身分の問いである。
また、それは観察されない。
科学で利用できる手段では、外在的実在の存在を証明できないので、
いかなる実験的にテスト可能な物理的内容から自由で、
物質世界の特定の区分化を仮定することなく、
われわれは、実在主義を純粋に形而上学的な規則原理として
認識しなければならない。
さらに、物理的対象の潜在的な、もしくは顕在化した性質の役割の研究は、
物理学の仕事であって、哲学の仕事ではない。
古典物理学において、全ての潜在的性質が顕在化されると素定する
ことは許されているが、そのような規約が常に論理的に可能である
と仮定することの理由はアプリオリには存在しない。
科学の問題と言うのは、独立した実在の存在を証明することではなく、
人間の経験とは独立して存在する実在に関する近似的規則原理が
有益で、量子力学のような基礎理論のフォーマリズムと両立し、
他の全ての実験結果とも両立するということを示すことだ。
さらに、実在主義の考え方は、古典物理から出てきた構造や、
原子主義、局所化可能性、可分性、決定主義といった、特定の物理に
ついての考え方と結び付けるべきではない。
私は、次の実在主義の特徴を受け入れよう。
(i)
我々の認識とは独立に物質世界は存在する。
(ii)
物質の実在の私達の知識は意識の外の出来事にも依存する
(iii)
物理の諸理論は物質の実在のある内在的側面を参照している。
この特徴づけでは、実在主義はあらゆる種類の対象の存在を肯定も
否定もしない。
さらに、物質の実在の観察可能な側面のある特質が我々の心の組織化に
従うということを否定はしていない。
実際に、外の世界の常識的な記述は、常に観察者の心理的性質に依存する。
工学的領域を含む理論の枠組みにおいて、次の規則原理を付加するのは
合理的であろう。
もし、普遍的に正しい物理理論が工学科学の領域に限定されるなら、
付加される実在主義的解釈は、控えめに、工学世界の日常的実在主義を
与えるべきであろう。
中間領域、巨視領域と開いた系の量子力学
実際の量子力学-現場の科学者が使っているような-は、厳密に特定された公理系に
基づいているのではなく、ろくに定義されていない「第一原理」と働いている規則の
集まりに基づいている。
歴史的なヒルベルト空間によるフォーマリズム-1932年にフォンノイマンによって
紹介されたような-はlocally compact phase spaceに限定されている。
すなわち、この理論は厳密に閉じた系に限定されていて、たとえば、
電磁場で荷電した粒子の相互作用数学的に固有の記述を許してはいない
(無限に多くの自由度を持つ系における場合のような)。
結果として、公理的ヒルベルト空間フォーマリズムは本質的に不可逆過程や、
対称の破れの可能性を含んではいない。
基本的な物理学の対称性の破れの重要な事例は古典的オブザーバブルの危機である。
すなわち、全てのオブザーバブルが可換で、古典力学のオブザーバブルのように振舞う
オブザーバブルの危機である。
フォンノイマンによるヒルベルト空間の定式化は、ある石に基づいている。
ある石-フォンノイマンの聖典のような交換関係の表現に対する一意性定理である。
この定理の当然の帰結として、有限の自由度において、自発的な対称の破れは
存在しないし、いかなる古典的オブザーバブルも存在しない。
伝統的ヒルベルト空間の定式化はそれらの性質を説明できないという事実から、
いかなる哲学的帰結も描かれたことはない。
その回答はほとんどトリビアルだ。
石とフォンノイマンの一意性の定理は、対称性の破れと古典的オブザーバブルが
過度に制限された定式化において不可能であるということを述べている。
すなわち、フォンノイマンのヒルベルト空間フォーマリズムは、
普遍的に正しい理論としてみなすには不適切な量子力学の定式化である。
それのストレートな一般化であるFock空間の量子場理論は理論的に不整合である。
中間領域と巨視領域の物理を説明できない定式化に基づいた量子力学の
実在主義的な解釈を考えようと試みるべきではない。
幸運なことに、量子力学を、歴史的なヒルベルト空間の定式化やFock空間の定式化と
同一視すべき理由は存在していない。
もし、量子力学を原子、分子、中間領域、工学領域において、普遍的に
正しいとみなすなら、この理論の適切な数学的定式化は、分子や工学の全ての現象を
記述できなければならないということを要求すべきだ。
小さな分子ですら古典的性質を持つことが出来るのであるから、古典的振るまいと
言うのは巨大系の特徴的な性質ではない。
分子超選択則と分子古典的オブザーバブルの存在は化学や分子生物学において
経験的によく知られている事実だ。
ある分子のキラリティ、DNA螺旋分子の結び目、そして、化学物質の温度などは
分子古典的オブザーバブルの全く違った三つの例だ。
そのような経験的な事実はアドホックな現象主義的なやり方で記述されることが
出来るが、量子力学の第一原理からそれらの現象を説明することは困難である。
物質の普遍的に正しい理論は記述するだけではなく、生化学分子のキラリティ
(Lアミノ酸、Dシュガー、リピッド、ステロイドのような)が
古典的オブザーバブルであるというこを説明できなければならない。
分子レベルでの伝統的量子力学の重ね合わせの原理のこの破れの実在は、
深刻な出生障害を伴う恐ろしいサリドマイドの悲劇(Contergan tragedy)を
引き起こした。Conterganはサリドマイド(3-phtalimido-2,6-dioxopiperidin)の
商標で、二つのエナンチオマーの構造体が存在する。
サリドマイドの左手のアイソマーは強力で安全な睡眠薬である。しかし、右手の
アイソマーは奇形要因で、胎児が大きくなるにつれ悲惨な生理学的な奇形を
引き起こした。
工学の領域で、量子力学は原理的に測定器具や実験室内の
あらゆる装備の記述を与えることが出来なければならない。
それゆえ、完全に成長した量子力学の定式化は、古典的な点力学や
カオスの非線形力学系、連続体の力学、流体力学、古典的統計力学、
相変換を含む熱力学、Maxwellの電磁気学、Newtonの重力のような
十分成功した工学理論を含んでいなければならない。
中間領域において、まったく同一の対象から量子的性質と古典的性質の両方が
現れるということは別に突拍子もないことというわけでもない。
しかし、それらは「対応規則」では理解できない。
それらの記述は、特殊事例として伝統的量子力学と古典力学の両者を含む
血の通った理論を要求する。
たとえば、DNA分子-遺伝情報の物質的キャリアー-は、光化学的光学活性のような
量子力学的な記述を明らかに要求する重要な性質を持っている。
他方でDNA分子は、遺伝子の再結合に生物学的に重要で明らかに古典的な3級構造を
持っている。
さらに、DNA螺旋分子は結び目を持っていて、その結び目のタイプを変える酵素も
存在している。
DNA分子の結び目のタイプは、いかなる対応原理をもってしても説明できない
古典的性質の例である。
分子生物学はそのような交じり合った量子-古典系の宝庫である。
酵素は分子測定器のように振る舞い、その機能には古典的な振る舞いが要求される。
免疫系は、ここの分子の個別性を保証して、古典的にだけ記述可能なメモリーを持つ
分子量子系である。
そのような系を理解するためには、単一の個別の分子の量子的性質と古典的性質の
両方を記述できる物質の理論を必要とする。
量子的振る舞いと古典的振る舞いの交差点はBohrの対応規則では
与えることは出来ないので、分子量子力学の最も重要な理論上の問題は
量子的対象の環境と古典的自由度を持った個別的で、小さく、孤立していない
量子的対象の相互作用の正しい分析である。
全ての科学研究において、宇宙全体を対象系とその残りである環境へと
分割する。
過去の量子力学で許されないほどに無視をされていた環境は、
バックグラウンドとして働く。
環境無しの物理的対象という考え方は、非常に乱暴でちぐはぐな抽象化である。
Eddintonはその遺作Fundamental Theoryにおいて、バックグラウンドの考慮の
不可避性について注意を促している。
「環境というのは考慮の外においてはならない。
宇宙の物質の残りの部分の全てを全部消し去るということを含意する条件での
原子の振る舞いの定式化を展開させるというのはあまりにも横着であろう。
相対性理論において、我々は原子の概念をそれ自身で完成しているものとしては
認識していない。
山のことを、それが立っている惑星なしには考えられないように、
原子のことをそれが入っている環境のことを抜きにして、これ以上
考えることは出来ない。」
それゆえ、実際の理論の抽象化された構造は、研究対象の環境の
本質的な特性を記述するだけ十分豊富で複雑でなければならない。
完全で、数学的に厳密で、経験的に適切な開いた量子系の理論、
中間領域や巨視領域の量子系の理論は、未だに非常に渇望されている。
しかし、代数量子力学を用いれば最も良い数学的ツールを使うことが可能の
ように見える。
代数量子力学は新しいものではないが、物理的にも数学的にも適切な量子力学の
定式化(formulation)である。それは量子力学の特有の適切な定式化のひとつに
しか過ぎない。
アドホックな修正も、隠れた変数も、量子化の手続きもまったく不要である。
代数量子力学はあらゆる種類の物理系を含んでいる。
たとえば有限系(locally conpact phase spaceを持つ)、
無限系(locally conpactではないphase spaceを持つ)。
有限系と無限系の振る舞いには劇的な違いがある。
Stoneとフォンノイマンによる一意性の定理によれば、
有限系は一意のヒルベルト空間の表記を持つ。一方で、
無限系は無限に多くの物理的に不等価なW*-表記を持つ。
それは、自然における観察可能な現象の驚くべき複雑性を
説明している。
代数量子力学の枠組みでは、開いた量子系では、対象性が破れ、
古典的オブザーバブルを所有することが証明される。
文脈的古典的オブザーバブルは、新しい文脈的なトポロジーとともに
内在的なオブザーバブルの代数によって生み出されという意味で
現れている。しかし、それらは、内在的オブザーバブルの関数ではない。
出現した古典的オブザーバブルの典型的例は熱平行にある系の温度である。
動的な量子系の文脈的古典的部分は常に統計的に動的な系である
ということがわかる。
本質的なやり方で、それはプランク定数に依存しているが、
それにもかかわらず、古典力学の法則にしたがっている。
加えて、古典的オブザーバブルの出現は調査する系の巨視的性質には依存していない。
すでにより小さな分子でも古典的性質を持つことができる。
内部物理的(Endophysical)記述と外部物理的(Exophysical)記述
明らかに、現代の量子力学は物質の究極理論ではない。
しかし、たとえ真なる普遍的な究極理論を手にしたとしても、
観察される現象を記述するのに必要な情報全てを我々に与えることはないだろう。
「普遍的に正しい」という文は文字通りには正しくない。なぜなら、
全てのものを含む言語は、意味論的には閉じていなければならず、
それゆえ、二律背反を生み出すからである。
完全な記述の不可能性は、理論の能力ではなく論理的必然性による。
それ自身を検証する手段を記述しようと試みるあらゆる理論は、
必然的に自己参照的である。
自己参照のパラドックスを避けるために、少なくとも2階層持った理論を必要とする。
その理論では、2階層目はメタランゲージと呼ばれる別の言語で定式化されて
いなければならないメタ理論をあらわしている。
このメタ言語は、基本的な物理学の言語より本質的に豊富な内容をもつ。
もし二つの言語が同一なら(もしくは翻訳可能なら)自己参照的な文を持つ
意味論的に閉じた言語である。
そうすると、我々は世界を二つの部分に分けるべきである。
観察される部分と観察する部分に。
我々の記述はこの切断に依存するが、この切断はいかなる究極理論からも
導出されないのだ。
それゆえ、仮説的に素定された普遍理論は少なくとも、ほんの小さな領域では
あるけれども、完全な実在の一部を記述することができる。
物理は彼らの研究から認識の主題を排除する。
物理は人の自由の中の人の実在を取り扱うことは一切知らない。
続いて、現場の仮説を次のように受容する。代数定式化した量子力学は、
原子、分子、中間領域、非宇宙論的巨視領域において普遍的に正しい。
基礎物理理論としての量子力学の信頼性についての自信は
実験室での実験による確証によって本質的に基礎付けられている。
すなわち、工学の正しさも自由をもった実験の誤謬性も仮定されているのであって
量子力学の第一原理からは導出されない。
意識や自由意志が脳の状態のような有機物の物理的性質に還元できる
とは仮定しない。
選択や目的のあらゆる考え方は物理の第一原理からは導出できない
適切な規則原理に含まれるべきである。
明らかに、そのような規則原理は我々の世界描像において中心的な役割を果たす。
それらの素定は、内部物理と外部物理という区別をする必然性を導き出す。
この有益な区別は、Otto RosselerとDavid Finkelstainによって作られた。
彼らの考えとは使い方を間違っているかもしれないけれども、
その言い方を受け入れよう。
いかなる観察者という概念も含まない厳密に閉じた物理系を内部系とよぶ。
もし内部世界が観察する部分と観察される部分に分かれているなら、
それは外部物理的記述をしていることになる。
コミュニケーションツールを持つ観察者の世界を外部系とよぶ。
外部物理と内部物理は違うということに注意しよう。
我々の知る全ての本質的に普遍的に正しい第一原理は厳密に閉じた系を参照している。
それゆえ、内部物理に属する。
それらは普遍的に正しいことが仮定されているけれども、それらを操作することは
出来ない。厳密に言えば、内部系の外には何もないのである。
内部物理的記述はありえない展望からの眺めなのである。いわば、神の視点、
「どこにもないところからの眺め」なのだ。
すでに、量子力学のフォーマリズムは電子、原子、分子のような量子系が
世界の残りの部分と絡み合っているということを予測している。
そして、それらは、「実際に存在する」個別のモノに対する可能な候補者では
ありえない。
量子力学を全体主義的な理論として受け入れるなら、
整合的な実在主義のあり方は、ひも、クォーク、電子、原子、分子のような
かっちりと構築した塊としての独立した存在を素定することは出来ない。
特定の観点から物質を記述するためにそのような塊を構築するが、
世界は、そのような塊から作られてはいない。
この洞察は、量子力学は本当のところ何があるのかということについての
お話であるという見方とは矛盾しない。
客観性は、分子、原子、電子、クォークなどといった
経験の向こうにあるモノのなかにあるのではない。
それらは、単なる物質的な実在の現れでしかない。
基本的なレベルで対称性のような違った側面を強調しなければならない。
第一原理は自然法則ではないけれども本質的な考え方ではある。
ある程度までは、第一原理としてみなすものや、パラダイム上の実践の規則
としてみなすものは好みの問題でしかない。
可能で適切な限り、第一原理は文脈から独立である。
そうした理由で、第一原理はすでに日常的感覚からひどくかけ離れている。
全ての有力な第一原理は高い内在的な対称性を持つ状況を参照している。
経験が、対称性が第一原理を選ぶ有効な基準であるということを教えてくれる。
そうして、最大の対称性は内部物理の第一原理の典型的特長であるという見方を
受け入れる。
そのような本質的対称性は日常の領域ではルールとして明らかではない。
Pierre Curieが明らかに認識していたように、それらの対象性が破れるのは
必然的である。
~フランス語なので略~
すなわち本当の内部物理の対称性は経験によっては直接的に
受け入れることは出来ない。それらは、経験的に、外部物理の対称性が
破れることによってのみ見出される。
この説明において、対象性の破れを示す全ての規則や法則が文脈依存で
特定の外部物理の記述に属していることを考慮している。
たとえば内部物理に対して、時間の対称性で特徴付けられる2方向の
決定主義的な時間発展を素定する。その一方で、ほとんどの外部物理的記述の
時間の矢は、時間対称性の破れを明らかにする。
量子内部物理は物理実験で何が起きているかを予測できない。
なぜなら、内部世界においていかなる観察器具や観察者の概念も
存在しないからだ。
厳密に決定主義的な理論は人間の観察とは独立して存在する実在の記述を
組み立てる。
量子内部物理が決定主義的であるという事実は、内部もしくは外部の観察者に
よって決定できるということを含意していない。
内部物理的記述は内在する存在(immanent ontology)を参照して、
操作できないやり方で、独立した実在を描いている。
世界の全ての操作的記述は、観察される部分と観察する部分の切断を
導入することによって、内部物理の記述から外部物理の記述への遷移を
要求している。
外部物理的記述はd'Espagnatの意味で経験的実在を参照している。
内部物理の第一原理は外部系を特徴付けるのには不十分である。
なぜなら、全ての外部物理的記述は内部物理の原理に依存するだけではなく
切断の選択にも依存するからである。
この事実は、内部物理の記述から外部物理の記述への移動は出来ないということを
含意はしていないが、そのような試みにおいては、付加的な規則原理を必要とする
ということを含意している。
それゆえ、全ての外部物理的記述は文脈依存であり、少なくとも弱い客観である。
(同一の切断を選択する観察者間の間主観的同意という意味で)
逆の問題として経験所与から知覚している主体とは独立した世界描像を
構築することがある。
専門用語を使って言えば、操作的に受け入れられる外部物理的記述から
推測される内部物理の論理的に整合している再構築である。
内部物理的な内在的存在論の理論構造は、実在化の問題として認識されうる。
すなわち、基本的理論によって含まれる物質の実在の全ての側面の適切な全ての
外部物理的記述を、適切な規則原理を持って、我々に許すような
存在論的に解釈された理論構造について問ている。
この実在化の問題は、主に整合性の問題である。
それが一つの解を持つなら、それはたくさんの解を持つ。
我々は、ある最小性の要求(オッカムのかみそり)によって、
そして、それによる工学領域での制限が、古典力学でほとんど普遍的に
加えられていた実在主義を与えることができる存在論を加えることによって、
この非一意性を減らすことができる。
それゆえ、内部物理は世界がこのようになっているという
文字通りでの真なるストーリーにはなりえない。
内部物理の実在の考え方は両立可能でもなければならないが、
経験所与からの導出は可能ではない。
アインシュタインの言葉を借りれば、
「存在(Being)とは常に我々によって心に生み出されている何かだ。
すなわち、(論理的な意味で)自由に素定する何かだ。
そのような構成物の正当化は感覚によって与えられるものから
導かれたものの中にはない。
(論理的な推論可能性という意味で)そのような種類の導出は、どこにもなかった。
前科学的な考えの中にですらないのだ。
我々に実在を与える構成物の正当化は感覚的に与えられるものを分かりやすくする
それらの能力の中にのみあるのである。

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