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観察

1998年2月 4日 00:00

我々は、
科学理論は客観的な観察から構成される
と考えがちだ。
このとき、無条件に、理論と観察を区別している。
一種のあるがままの観察というものを前提しがちだ。
反証主義や検証主義などは明らかに、明確に理論と それを検証(反証)する観察の二つを明快に分離している。

果たして、その様な観察は可能であろうか?

良く言われる例として、Tクーンの「科学革命の構造」で 出てくる学生の話が出てくる。
この話は、大雑把に言うとこんなストーリーだ。
教授が学生に「観察しておいで」というと、学生は「何を観察すれば良いのですか?」と聞き返す。この事より、観察には客観的な「見る」という活動以上に何か前提が必要であると結論付ける。
また、ハンソンの「科学的発見のパターン」などでは、観察の理論負荷性という概念を用い、前提知識の有無と観察についての関係を指摘した。
たとえば、顕微鏡を何も知らない子供がのぞいたときと、微生物の研究者がのぞいたとき、全く同じものを見ているはずなのに、その報告は全く違うものになる。
すなわち、その人が観察の前に持つ科学理論という概念や先入観で、観察は大きく変化するという事である。
さらには、現代の科学において測定器なしの観測は存在し得ない。 そして、その測定機の多くは科学理論の賜物である。

この議論を推し進めると、「観察の前に理論あり」という事になる。
極論すると、実在主義者が述べるような「観察とは科学理論の枠組みの中で行われる活動である」ということになる。

しかし、この話は真であろうか?
科学理論は理論と合致しない観察によって棄却され取り替えられてしまう。
観察が理論の枠組みにて行われているのであるから、理論に背く観察が 現れるというのは、何かしっくりこない。
言いかえれば、理論と実在が合致しないということも検出する機能を明らかに持つと思われる。
そうすると、観察は理論の枠組みの中に入らない何かが少なくとも存在する。
たとえ、科学の理論が観察のすべてをも含むものになろうとしているとしても。

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